メールマガジン「P.E.N.」バックナンバー

日本ペンクラブ・メールマガジン「P.E.N.」第66号2008年12月17日

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目次
1)「ペンの素顔」第6回・3月3日を「平和の日」にした小中陽太郎さん
2)シンポジウム「紙の本のゆくえ~文学と図書館の新しい挑戦」1月24日
3)日本ペンクラブ編の新刊『年齢は財産』発売中
4)「電子文藝館」のご案内
5)編集後記「ぺんぺん草」

/////////////////////編集長:高橋千劔破 編集:鈴木康之 記事:穂高健一////
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「ペンの素顔」第6回・3月3日を「平和の日」にした小中陽太郎さん

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 小中さんは東京大学仏文学科を卒業し、NHKのディレクターを経てフリー
となり、ルポやコラムを中心とした作家活動をしてきました。故・小田実さん
たちとベ平連を結成。そして、たびたび海外にも赴き、国際連帯に貢献した経
歴を持っています。
 1984年の国際ペン東京大会では、国際委員長として活躍しました。その後、
梅原猛会長の下で、3期6年間にわたって専務理事を務めました。現在は理事で
あり、一方で大学の教壇に立ちながら、講演や執筆活動しています。
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一挙に25人がペンクラブに入会

――小中さんたちが日本ペンクラブに入ったとき、世間はセンセーショナルな
出来事として見ていました。そのあたりからお話ください。

[小中] 日本ペンクラブは初代会長の島崎藤村以来、志賀直哉、川端康成な
ど純文学が主流でした。僕が入会した1974(昭和49)年は、芹沢光治良さん
が会長でした。
 僕たちが加わる当時の日本ペンクラブは、死刑判決を受けた韓国の詩人・金
芝河の問題でゆれていました(韓国ペンが、日本代表2名に「金芝河は政治活
動による逮捕・投獄である」と説明した。代表がそれを鵜呑みにし、「言論弾
圧とは言えない」と理解を示した。こうした日本ペンクラブへの批判)。
 ソ連ではソルジェニーツィン(著作『列島収容所』に対する)弾圧事件が起
きていました。西と東で、二つの大きな言論弾圧で、激しくゆれていたときで
す。
 エンターテイメントで活躍する作家たち、旗手として野坂昭如、五木寛之、
生島治郎、三好徹、藤本義一、早乙女貢など各氏が、言論・表現の自由に対す
る危機感から、立ち上がり、「ペンに入って、内部から体質改善を」と決めた
のです。集団入会する折、僕も誘われました。

―― 一挙に25人が入会しました。その直後の同クラブの臨時総会で、新会員の
方々が日本ペンクラブに息吹を吹き込むように、質問されていますね。当時の
資料によりますと、中村武志さんが、新入会員の入会が遅れた理由について、
質問しています。野坂さんは、先の訪韓理事2名がファーストクラスで韓国・
ソウルに往復した問題を、五木さんは「『情況』という雑誌の座談会に出ただ
けで、警察が二度も事情を聞きに来た。危機は迫っている。ペンの目的に『出
版の自由』も入れてほしい」。小中さんもこの総会で発言されていますね。

[小中] 僕はアジア・アフリカ作家会議と「金芝河氏らを守る会」のメン
バーでした。公開質問状を日本ペンクラブに出したけれど、ナシのつぶてでし
た。それを問題にし、正規の団体の質問状には回答くらい出すように、日本ペ
ンクラブはもっとオープンに、という要望をこめたものでした。

――日本ペンクラブは、直木賞作家たち、新会員の積極的な発言から、新しい
波、"再建"への道を踏み出した。多くの方が理事にもなりました。

[小中] 新会員から14人が理事に選ばれました。僕もその一人でした。しか
し、僕が理事になると、べ平連が乗っ取ったとか、政治活動をペンに持ち込ん
だとか、言われるのを心配して、理事から外してもらいました。
 仲間の作家からは、理事の一票が減ったと怒られました。青島幸男さんも参
議院議員でしたから、理事になりませんでした。
 その後、2度目の理事選挙でも選ばれました。このときからは引き受けてい
ます。石川達三会長の下でした。ここで、「二つの自由」の論争が起こりまし
た。

――「二つの自由」の論争について、お話ください。

[小中] 石川達三会長が新会長就任の弁として、「言論・表現の自由には一
歩も譲れない自由と、社会や国家の秩序と協調するために、ある程度譲歩でき
る自由とがある」と述べました。
 僕たち有志15名の理事が集まり、「石川会長発言はペン憲章の精神から承服
しがたい」という結論に達しました。そこで、石川会長と長時間にわたって激
しく論争しました。
 石川会長が「どうしても譲れない自由とは、自分の思想・信条を発表・表現
する自由である」という、補足確認をおこないました。いったんは収まりまし
たが、その後も理事会や執行部で、この問題はなにかと論争になりました。

――石川会長の後、高橋健二会長になり、日本ペンクラブの活動が海外へと広
がりを見せてきましたね。小中さんはどのような役割でしたか。

[小中] 77年に、高橋新会長が就任されました。その当日に国際委員会が再
組織されました。僕はその委員に選ばれました。
 翌78年10月、スペインのバルセロナで、国際ペン会議開催されました。バス
クの自治を訴えた女医の獄中書簡『エバの日記』を翻訳したところで、僕は日
本代表として出席しました。
 このバルセロナはかつて1935年に、第13回国際ペン大会が開かれていま
す。そのあと、フランコとの戦いで敗れてしまい、長く「カタロニア語」の使
用が禁止されていました。
 フランコが75年に死去し、「カタロニア語」が復活しました。そんな背景か
ら、77年の国際ペンは本来の言語で行なわれた、記念すべき会議でした。
 僕はアイヌ語や沖縄の方言について、独自性と抑圧の歴史ついて語りまし
た。

テーマ「核状況下における文学──なぜわれわれは書くのか」
――小中さんは海外の獄中作家の救援問題にも、数々取り組まれていますが、
今回のインタビューは国際ペン大会に絞らせていただきます。まず81年の国際
ペン・リヨン大会で、84年の東京大会が承認されています。

[小中] この年、日本ペンクラブは会長選挙が行なわれました。決選投票
で、井上靖さんに決まりました。井上体制の下で、国際ペン東京大会に向けて
始動していきました。
 かつて75年もしくは77年に、東京で国際ペンの開催という話がありました。
ほぼ決まりでしたが、「金芝河問題」から断念した経緯もあり、81年リヨン大
会では、「84年・国際ペン東京大会」の開催が満場一致で可決されました。

――このごろはまだ東西冷戦で、国際情勢は緊迫していたかと思いますが。

[小中] そうです、核兵器問題で緊張した国際情勢でした。東西ドイツ・ペ
ンセンターから、「人類は新しい原子兵器、中性子爆弾、巡航ミサイルなどの
限定核戦争が起こる可能性がある。そうした動きに強く反対する」という内容
で、世界の人々に平和アピールがなされていました。日本ペンクラブも連帯い
たしました。
 国内では、「核戦争の危機を訴える文学者の声明」が出されて、署名運動が
広まり、大きな反響を呼んでいました。核が重要な問題でした。

――小中さんは1982年のロンドンで、国際ペンの代表者会議に参加しています
が、2年後の東京大会のメインテーマについて触れていますね。

[小中]巌谷専務理事とともに参加しました。僕は会議の2日目に、日本ペン
クラブはすでに大会準備委員会を設置し、鋭意努力していると説明しました。
そのうえで、メインテーマは普遍的なもの、文学セッションは文学的、アジア
的なものを検討していると伝えました。
 一方で、僕はウェストベリ会長の許可を得て、この会議の開催中に、「核戦
争の危機を訴える文学者の声明」の署名を集めました。38代表から賛同を得ら
れました。

――東京大会のテーマは「核状況下における文学──なぜわれわれは書くの
か」という、政治色の強いものです。

[小中] 政治運動をする意図はありませんでしたが、東西冷戦、作家の思想
とからんだ、重いテーマでした。かんたんに決まったわけではありません。82
年2月から6月まで、理事会でずいぶん意見を交わしました。
 最初は原案11項目が理事会に出されました。3つに絞り込み、全ペン会員に
アンケートを求めることになりました。
 三好徹さんが議事委員会に提案した「核時代における文学のあり方」も、そ
のひとつでした。しかし、夏堀正元さんが、「核時代とはあまい。核脅威下と
するべきだ」と力説されました。
 会員配布のアンケートでは「核脅威下における文学の役割」と修正されまし
た。「作家の自由とは何か」、そして「ナショナリズムと文学」の3つをもっ
て全会員に問いました。最も多かったのは、「作家の自由とは何か」です。2
番目が、「核脅威下における文学の役割」でした。
 最終的な決定権を持つ理事会で、この2つに絞って集中的に審議されまし
た。討議が白熱するほどに、2番手であった「核脅威下における文学の役割」
がメインテーマに、という意見が支配的になりました。

――国際情勢も、かなり影響していますね。

[小中] ベトナム戦争が終わって10年が経っていました。核の脅威、つま
り、核のなかで脅かされている現状がありました。文学者の反核声明が出され
たり、沖縄50万人のデモがあったり、核兵器を廃絶したい、という思いがみな
さんに強くありました。

――「核脅威下」でなく、「核状況下」に変わりました。

[小中] 「核脅威下における文学の役割」に対して、日本ペンクラブはいつ
から反核運動の団体になったのだとか、「核脅威下」という表現には違和感が
あるとか、政治色が強すぎるとか、原水爆禁止運動とはどうちがうのか、とい
う批判がずいぶん出ました。それに対して「核兵器廃絶運動ではない、あくま
で文学に何ができるか、を根に据えるのだ」、という意見。なかなか決まりま
せんでした。

――まさに議論百出ですね。

[小中] そうです。日本国内では、「核は悪だ」という視点は共通の認識で
す。しかしフランスのように、必ずしも核武装が悪というものでなく、「米国
の核が冷戦を押えている」という考え方もある。ロブグリエがそうでした。
 核自体に反対するよりも、いまが危機である「状況」を捉えていく。核の状
況下をもう一度見つめよう、見直そう。そこで、「核状況下における文学──
なぜわれわれは書くのか」というふうに修正されました。そして、最終的には
井上会長の裁定で、決まりました。

――決まったからには、一本でまとまったわけですね。

[小中] 三好徹さんのエッセイ『文壇ゴルフ覚書』に、東京大会の打ち合わ
せで、井上会長宅にいた、そこに一本の電話がかかってきた、というくだりが
あります。当時、大岡昇平と井上靖の2人は仲が悪いと、出版界では伝説的に
いわれていました。
 井上さんは電話を終えた後、三好さんに「大岡昇平君からでした。ペン大会
のメインテーマがとてもいい、というのです」といった。ふだん顔色を変えな
い井上さんなのに、顔面が紅潮していたという。

目配りのよくきいた井上靖会長

――文学セッション(分科会)のテーマについて、お話ください

[小中] まず「作家と人権」が決まりました。つづいて、「東西の文学関係
──現代社会における日本文学」、「文学と映像」が決まりました。映像は新
しいでしょう? 必ずしもビジュアルなアプローチは見られなかったけれど、
新しいでしょう。

――東京大会の前年、小中さんは83年国際ペン大会が開かれたベネズエラのカ
ラカスに出向かれましたね。

[小中] 実はこの年、僕は、フルブライトの教授として、米国の大学で教鞭
をとることになりました。日本から離れていますし、井上靖会長には国際委員
長の辞退を申し出たのです。「国際委員長はキミじゃないとダメだ」と言われ
ました。そんなことから、僕は秋川(陽二)事務局長と日本代表として、米国
からカラカスに飛びました。ビザではもめましたけれど。
 オブザーバーとして、巌谷(大四)専務理事、早乙女(貢)、三好両常務理
事など総勢15人と合流しました。目的は大会運営の見学と、翌年の東京大会に
より多くの海外ペンを招くためのPRです。

――東京大会で難問とか、壁とか。そういうものはありましたか。

[小中] 困ったのは中国問題です。中国には3つのペンセンターがあります
「上海中文筆会中心」(上海ペンセンター)と、「中国文筆中心」(北京ペン
センター)の2つが参加しました。問題は台湾の表記です。
 英語では、「P.E.N.Center of Republic of China」ですが、漢字で
「中華民国筆会中心」(台湾ペンセンター)と表記したところ、中国から抗議
があった。撤回しなければ引き揚げる、とまで言う。
 日本としては中国とも、台湾とも共存し、仲良くしたい。台湾側は、「中華
民国筆会中心」を取り下げるならば、引き揚げるという。日本側は、ペンの公
用語は、英仏(当時)だから、と説得したけれど、双方は厳しい態度でした。
 井上靖会長は従来から、日中友好の姿勢を貫いている。他方、日本側の会員
にも、中国の言論弾圧を批判する人もいる。徹夜で協議した結果、「台北」と
いう都市の代表だからということで、「台北筆会中心」の表記で収まりまし
た。

――国際ペン大会とは、実際にどんなものか、お聞かせください。

[小中] 国際ペン大会は、文学セッションと理事会です。文学セッションに
は、会員ならば、国内外を問わず誰でも出席できます。理事会は各国から2人
ずつの代表が参加します。そこで、国際ペン会長を選んだり、次の開催国を決
めたりします。
 理事会には、日本ペンクラブ代表の大江健三郎さんと、国際委員長の僕と2
人が参加しました。

――東京大会で、印象深かったことをお聞かせください。

[小中] 1984年、国際ペン東京大会の会長は井上靖さんです。目配りのよく
きいた会長でしたね。
 開会式で、井上会長は、「もう、自分ひとりの幸福を求める時代は終わっ
た。他の人たちが幸せでなくして、どうして自分が幸福になれるだろう。いま
こそ『孟子』の葵(ききゅう)の丘会議の故事の、英知にならって、人間を信
じ、人間がつくる人間の歴史を信じる文学者の立場に立ちたい」という名挨拶
をされました。それは心に響きました。

――予算の面ではご苦労があったかと思います。

[小中] 井上靖会長が先頭にたち、三好徹さんが財務を取りまとめていまし
た。井上さんみずから各新聞社・出版社に訪問されて、各社の社長に面談し、
資金の協力を仰ぎました。
 「ペンの精神に理解のある一般企業へも浄財をお願いするが、軍事関連産業
からはいただかない」と三好徹さんが線引きしました。僕たち理事も各企業や
団体をまわりました。どこも好意的でした。

――資金集めが成功した、最大の要因はなんでしょうか。

[小中] 井上靖会長の存在が大きかったと思います。会長の下で一致団結で
きたこと。と同時に、会員の献身的なボランティア活動が生み出したものだと
考えています。また、秋尾暢宏事務局長や博報堂も活躍し、会場の京王プラザ
ホテルも大幅に協力してくれました。事務局員も不眠不休でした。

――海外からも、作家が多く参加しています。

[小中] カート・ボネガット(アメリカ)は『スローターハウス5』で有名
ですね。アラン・ロブ=グリエ(フランス)は全体会議の第1日目で、「断片
化と物語──作家は真実の担い手にあらず」のタイトルで話しました。そのな
かで、「かつて自由を保障した真理もいまでは抑圧にしか役立たない」と指摘
した。
 同じ1日目には、巴金(中国)が原爆症を治すために1300羽の鶴を折った、
広島の少女を引き合いに出した。そのうえで、人類の繁栄、読者の幸せをもた
らすのが作家の目標だと説きました。
 ほかにも、フランク・トゥイ(イギリス)など、多くの作家が海外から参加
しました。

――全体会議は3日間ですね。日本人作家についてお話ください。

[小中] 第1日目は遠藤周作さんでした。タイトル「文学と宗教──無意識
を中心として」のなかで、核時代なればこそ、人間の内面探求が必要である、
と説かれました。
 3日目の最後は大江健三郎さんです。タイトル「日本人は原爆をどう表現し
てきたか」です。日本ペンクラブ編の原爆文学アンソロジー『何とも知れない
未来に』(集英社)のなかから、作品を紹介しました。
 このタイトルは、原民喜の『心願の国』の作中の一節です。「この世は一体
どうなるのだろうか。人々はみな地下の宝庫を夢みているのだろう、破滅か、
救済か、何とも知れない未来にむかって......」。ほかにも、井伏鱒二『かきつ
ばた』から、広島における被爆直後のカキツバタの狂い咲きが、原爆をいかに
象徴的に描いているかを述べた。
 そのうえで、大江さんは「作家はことばと想像力によって、テクノロジーの
頂点から核兵器を引き下すことをあきらめずに書かなければなりません」と結
びました。

――イベントも盛りだくさんですね。

[小中] 開会式のあと、歓迎レセプションは華やかなものでした。ステージ
では安達瞳子さんのレーザー光線を使った、幻想的で前衛的な「花手前」には
じまり、やがて笛の音とともに巨大な桐の木を主調にした「いけばな」が浮び
上がってきた。その瞬間は、拍手が鳴り止まなかった。
 大会が終わると、海外作家を古都・京都に案内し、名園の情緒を楽しんでも
らいました。当時の日本流のもてなしですよね。また、広島にも足を延ばし
た。

3月3日が「平和の日」に

――東京大会の最大の成果は何でしょうか。

[小中] メインテーマ「核状況下における文学──なぜわれわれは書くの
か」が推し進められた結果、平和への意志を会議に盛り込むことができまし
た。僕と大江さんが大会の平和委員会に提案した「平和の日」です。これは大
きな成果だったと考えています。
 平和の日はいつにするか。8月15日の終戦の日でも良かった。しかし、戦争
終結では勝った国と負けた国がある。もっと平和な日がいいと、スロベニアが
助言してくれました。バルカンらしい智恵でした。それであれこれ考え、僕が
「3月3日ひな祭り、この日を世界中で、平和の日にしましょう」と提案しまし
た。全員の賛同が得られました。日本ペンへの僕の最大の功績ですかねえ。

――現在まで、続いていますし、すごいことですね。

[小中] 東京大会の翌年、85年の3月3日に、第1回の「平和の日」が東京・赤坂
の草月ホールで開催されました。
 この間に、シンボルマークは公募で、「輝く太陽を背にした鳩・世界平和へ
の祈り」が採用されました。まさに、世界平和への祈りの象徴です。
 井上靖会長が講演し、600年前に、黄河流域の国々の代表が戦乱を避けるた
めに開いた「葵丘会議」の故事を引用し、平和の日の意義を強調しました。
 大江健三郎さんが「個人のなかに積み重なる文化が、やがて世界全体の「生
きるにあたいする平和を守ることになる」、と述べました。その意味からして
も、日本女性の文化が生んだ、ひな祭りの日を選んだ、そのアイデアの良さを
称えていました。

――国際ペンでも、「平和の日」が正式に設定されています。

[小中] 日本で第1回目が行なわれた、2か月後の5月でした。ユーゴ・ブレ
ドの平和委員会に僕と井出孫六さんが参加しました。この会議で、東西ドイツ
の提案から、国際ペンの「平和の日」が恒久的に3月3日と決まりました。同時
に、日本で作られたシンボルマークが採択され、毎年、国際ペンとしても3月3
日にキャンペーン活動を行うことに決まりました。

――3月3日の「平和の日」は実に意義深いものになりましたね。

[小中] 世界ではともかく、日本では、新井満さん、俵万智さん、米原万
理、3人のマンさん(笑)たちのおかげで、年々盛り上がってきています。
 今年の「別府の集い」で24回ですからね。最初はこちらから申し込んでも、
断る自治体もありました。いまは2年先、3年先まで、立候補がきています。
 群馬・伊香保で「平和の日」が実施されたとき、与謝野晶子の詩が彫られて
いる石段街に、男女の雛がずらっと並びました。実に和やかな光景でした。
 これを見て、僕は国際ペン東京大会で生まれた、「平和の日」が「ひな祭
り」で最適だったと思いました。

――その後、小中さんは梅原猛会長の下で専務理事として活躍してきました。
いまも理事として、要職につかれています。世界にはいろいろな問題が起きて
います。国際的視野をお持ちの小中さんは、現在の関心事はどんなところで
しょうか。

[小中] チベット問題であり、北朝鮮の拉致であり、パレスチナなど多々あ
ります。国際ペンができたのは第一次大戦でした。第二次大戦後はドイツにお
けるユダヤ人虐殺が大きな痛みになった。そのユダヤがいまはパレスチナを弾
圧していると、僕は思っている。ペンには限界がありますね。でも、諦めた
ら、それで終わってしまう。
 2010年東京大会が阿刀田高氏会長のもとで、大きな成果を上げられるよう
に、私も国際関係でできることは協力していきます。

――最後に、現在の執筆活動など、お教えください。

[小中] 最近書き上げたのが、『小田実と歩んだ世界』(講談社)です。べ
平連の光と翳で、批判もありそうです。もう一つは、野坂昭如さんや小田実を
彷彿させるような、戯作者像を執筆しています。昭和元禄を文化文政時代の平
賀源内に仮託しているのですが、うまくいきますか。

日本ペンクラブは「2010年・国際ペン東京大会」にむけて進みはじめました。
小中さんのお話はこの先参考になる点が多く、有意義でした。長い時間、あり
がとうございました。

(インタビュー・構成:穂高健一)

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■シンポジウムのお知らせ
「紙の本のゆくえ~文学と図書館の新しい挑戦」

2009年1月24日(土)13時30分開場 14時開演 17時終了予定
会場:追手門学院・大阪城スクエア(大阪市中央区大手前1-3-20)
   京阪電車・大阪市営地下鉄谷町線「天満橋」駅より徒歩7分
定員:400名 参加費:500円
※参加には申し込みが必要です。日本ペンクラブのホームページに申し込み先
へのリンクがあります。http://www.japanpen.or.jp/

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 近年、読書をめぐる環境は急激に変化しています。出版コンテンツのデジタ
ル化がかなりのスピードで進行しているのです。この講演&トークセッション
はこのような状況の中で、文学とは何か、文学作品の流通・利用・保存とは何
かという論点と、従来、紙の資料を中心に収集・整理・提供・保存を担ってき
た図書館の役割とは何かという論点を同時に考えるものです。
 これからの本のゆくえについて考える時間を、ゲストのみなさんと共有して
いただければ幸いです。文学者、図書館関係者、学校関係者はもとより、メ
ディアに関心のある方や本が好きな多くの方々のご参加をお待ちしています。
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第1部 講演
「ネット社会と文芸著作権」三田誠広氏(作家・日本ペンクラブ)
「ディジタル時代の図書館の役割」長尾真氏(国立国会図書館館長)
第2部 討論「紙の本のゆくえ~文学と図書館に何が起こっているのか」
パネリスト
三田誠広氏、長尾真氏、永吉雅夫氏(追手門学院大学・国際教養学部長)、
中西秀彦氏(中西印刷専務取締役・日本ペンクラブ)
司会:湯浅俊彦(夙川学院短期大学准教授・日本ペンクラブ)

主催:日本ペンクラブ・追手門学院大学(共催)

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日本ペンクラブ編・新刊のお知らせ
『年齢は財産』(1600円+税 光文社)発売中

 年を取るよろこび
 年齢を重ねることによって、見えてきたこと
 気付いたこと、考えられるようになったこと

日本ペンクラブ会員31人による全編書下ろし
愛川欽也、阿川佐和子、浅田次郎、有馬敲、阿刀田高、五十嵐二葉、
伊藤桂一、今田美奈子、梅原猛、長部日出雄、落合恵子、角田光代、
川浪春香、ドナルド・キーン、倉橋羊村、佐高信、佐野洋、下重暁子、
瀬戸内寂聴、バーバラ寺岡、土居伸光、夏樹静子、C.W. ニコル、野村正樹、
松本幸四郎、眉村卓、三田誠広、もえぎゆう、梁石日、湯川れい子、吉岡忍。

http://www.japanpen.or.jp/katsudou/publication.html

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日本ペンクラブ「電子文藝館」のご案内

 10月~12月に新しく掲載された文藝作品です。閲覧はすべて無料です。

*評論
山本 澄子(やまもとすみこ 立正大学名誉教授(米文学・比較文学))
「ユージン・オニールの世界」

*随筆
北原 白秋(きたはら はくしゅう 詩人)「お花畑の春雨」
大久保 房男(おおくぼふさお 編集者・作家)「文藝編集者はかく考える(抄)」
淡島 寒月(あわしまかんげつ 江戸趣味研究家)「亡び行く江戸趣味」

*俳句
小川 芋銭(おがわうせん 画家)「春の句など」
尾崎 放哉(おざきほうさい 俳人)「句集(抄)」
種田 山頭火(たねださんとうか 俳人)「草木塔」

*評論研究
高村 光太郎(たかむらこうたろう 詩人・彫刻家)「戦争と詩」
岡本 勝人(おかもと かつひと 詩人・文芸評論家)「清岡卓行の三極構造にみる構成力と視座」
大原 雄(おおはらゆう ジャーナリスト・評論家)「座席知盛」

*詩
高村 光太郎(たかむらこうたろう 詩人・彫刻家)「高村光太郎作品抄」
小熊 秀雄(おぐまひでお 詩人)「馬上の詩」

*小説
中里 介山(なかざとかいざん 小説家)「笛吹川」
宇田 伸夫(うだ のぶお 小説家)「扶余残照」
吉田 絃二郎(よしだ げんじろう 小説家)「浅黄服の男」

*ノンフィクション
渡辺 清(わたなべきよし 作家)「戦艦武蔵の最期(抄)」
田尻 宗昭(たじりむねあき 公害Gメン・元海上保安官)「公害企業摘発の決意」

http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/

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<<ぺんぺん草>>

 小中陽太郎さんのロングインタビュー、いかがでしたでしょうか。1984年の
国際ペン東京大会から、はや四半世紀が過ぎたとは信じられない思いです。当
時、大会の責任者であった井上靖会長や巌谷大四専務理事はじめ、関係者の少
なからぬ人たちがすでに鬼籍に入られました。当時若手の理事として大会運営
に活躍した小中陽太郎さんや大江健三郎さんはご健在ですが、今や長老の部類
です。しかし、そうした方たちが積み上げてきたペンの歴史は貴重です。言論
の自由を守り、いかなる戦争にも反対するというペンの活動は、文学ファンの
みならず多くの方々に評価され支持されてきております。
 2010年9月、26年ぶりに国際ペン大会が東京で開催されます。前回の大会で
は、ペンクラブの会員以外、参加することができませんでしたが、今回は一般
の方々が参加できる文学セッションを幾つか企画しております。いずれこのマ
ガジンでご案内しますが、ご期待ください。
(高橋千劔破)