●日本ペンクラブ・メールマガジン「P.E.N.」第63号 2008年5月13日
////////////////////////////////////////////////////////////////////////////
目次
1)「ペンの素顔」第4回・吉澤一成事務局長に聞く
2)世界P.E.N.フォーラム『災害と文化』報告(2)
3)「電子文藝館」のご案内
4)編集後記「ぺんぺん草」
//////////////////////編集長:高橋千劔破 編集:鈴木康之 記事:穂高健一////
================================================
■「ペンの素顔」第4回・吉澤一成事務局長に聞く──キーワードはバランス感覚
----------------------------------------------------------------------------
今回のペンの素顔は、事務局長の吉澤一成さんにお願いしました。吉
澤さんは前職のサントリー広報部長から、日本ペンクラブの事務局長に
就任。今年4月から在任3年目に入ります。事務局長の素顔から、日本
ペンクラブの実像も浮かび上がるでしょう。
----------------------------------------------------------------------------
●日本ペンクラブとサントリー広報
[高橋] 事務局長を引き受けられた前と後で、その違いや感想を聞かせ
ていただけますか。
[吉澤] サントリーでは入社以来30数年間、一貫して広報畑にいまし
た。その間、通常の広報業務のほかに、さまざまな文化活動や国内外
のイベントにも携わってきました。サントリー美術館や音楽財団、文化財
団、サントリーホール開設時の広報、さらに国際化の時代を反映して、
ロンドンでの世界マッチプレイゴルフや北京マラソンなど、海外でのイ
ベントも数多く手がけてきました。PR誌『サントリークォータリー』の編集
長もつとめました。
事務局長へのお誘いを受けたときに、私が広報の職をこれだけ長く、
しかも多分野で無事に勤め上げられたのは多くの人たちの協力があっ
たからこそで、これからはその経験を生かして社会にお返しをする番だ
と考えて引き受けさせていただきました。日本ペンクラブの活動につい
ては、外からの目ですが、広報の立場から、だいたいわかっていまし
た。
[鈴木] サントリー時代は広報として、社外の人と幅広い交流があったわ
けですね。
[吉澤] ジャーナリスト、編集者、作家の方々ともお付き合いがありまし
た。私がもし広報でなく、別のセクションにいて突然事務局長に就任す
るとなれば、かなりカルチャーショックを受けたと思います。とは言って
も、実際事務局長の立場になってみると、日本ペンクラブの事務局とサ
ントリーの広報との違いはずいぶんありました。
[高橋] サントリーは広報にかけるお金はたくさんあったでしょう。日本ペ
ンクラブはお金がない(笑)
[吉澤] それよりも......、企業の場合は一つの活動を計画すれば、目指す
ベクトルがほぼ決まっています。いかに効率的に仕事を進め実現させて
いくか、という点に集中します。しかし、日本ペンクラブの場合は、例え
ば、委員会のなかでも委員一人ひとりが一つのベクトルに向かっている
とは必ずしも言えません。その点がかなり違います。最初はそこにやや
戸惑いを覚えました。
[高橋] 会員はそれぞれの異なった考え方を持っている。確かに、企業
のように最初にベクトルは決まっていませんね。
[吉澤] 日本ペンクラブの場合は、会員がディスカッションをしながら一
つの方向性が生まれていく。方向性が決まると、事務局がそれをス
ムーズに実行できるように環境を整え、推進していくことになります。
[高橋] 各委員会がさまざまな事業を企画して実行する、それが建前
です。作家、物書きは言うことは言う。ぜひやろうと決定しても、それで
は自ら進んで活動を推進するかというと、実行者になりにくい。「言うは
易く、行うは難し」。事務局が上手にリードしないと動かない面が多々あ
るはずです。大変ですね。
[吉澤] 委員会の各委員一人ひとりが実際に手を染めていただく、それ
が大切だと思っています。事務局は代行でなく、各委員会がうまく動け
るように後押しをする、そして実現させていくというスタンスだと考えて
います。
●中国ペンとの交流
[高橋] 国際ペンの下部組織として、日本ペンクラブは海外に人を派遣
しています。中国ペンとの交流もその一つ。1年ごとに相互交流してい
ます。吉澤さんは昨年、日本の代表団の一人として中国に行かれまし
たが、いかがでしたか?
[吉澤] 一番感じたことは......、双方の受入れ態勢には温度差がある、と
思いました。日本ペンクラブの場合は限られた予算です。しかも、海外
交流だけでなく他の事業もいろいろ推し進めています。ですから、限ら
れた予算とメンバーとで、いかに最大限のおもてなしをするか、という
考え方になってきます。
中国の場合は、外国からの賓客には国を挙げてもてなすという姿勢で
す。そういうお国柄です。この違いは大きいと感じました。
[高橋] 中国のみならず、国によってかなり違いますね。国家をバックに
動いているペンがあれば、特定のイデオロギーのなかで活動している
ペンもある。世界を見渡せば、さまざまでしょう。
日本ペンクラブは独立した組織であり、理事会と会員の総意で動いて
いる。国家を背景にした中国とは違いが大きい。しかし、日中は歴史的
に見ても、長い文化交流があります。上手に、大切に付き合う必要があ
る相手ですよね。
[吉澤] そう思います。昨年は中西進副会長が団長でした。「日本は1回
ごとにメンバーを違えて、訪中している。その場では交流が生まれ、意
義がある。しかし、次の日中交流に引き継がれず、結果として散発的に
なってしまう」と言われました。それは感じます。
私が事務局長として、最初に中国ペンの方々をお迎えしたときは、京都
での会員交流会にも出ていただき、奈良にもご案内をした。市川市では
公開シンポジウムを開催しました。
今回の訪中で中国がその結果を踏まえて、スタートするかというと、そ
うではありません。理想かもしれませんが、スパイラルアップできるよう
な交流ができればとの印象を強く持ちました。
[高橋] 私はかつて理事会で、海外の国際大会にその都度違う会員が
出向くのでは交流の糸がしっかりつながらない、と改善を提案したこと
があります。
[吉澤] そうですね。中国側には、中国ペンの渉外関係、外国人作家と
の交流を専門に担当されている方がいます。日本語が堪能だし、訪中
団にずっと付き添ってくださる。日本側は訪中団のメンバーが常に変わ
る。固定メンバーを決めて新メンバーを追加するようなことを考えても
よいのではと思います。
[高橋] 双方が顔見知りで、突っ込んだ話し合いがなければ、単に顔見
世興行だけで終わってしまう、という怖れもあります。
[吉澤] そうならないように工夫が必要ですね。
●創立75周年に向けて
[高橋] 話題は変わりますが、日本ペンクラブの理事たちの顔は、理事
会を通して見えている。しかし、会員の顔はなかなか見えてこない。そ
の面では何かありますか。
[吉澤] 会員の方々から、「交流の場がもっと欲しい、私たちの声にも
もっと耳を傾けていただきたい」という意見が寄せられています。ペンク
ラブでは、会員同士の交流の場を深めようと例会と名付けた懇談の場
を隔月に設けています。
私は事務局長に赴任してから例会にも、京都例会にも、すべて参加し
てきました。丸二年ですが、最近は私の顔をみると、話しかけてくれる
方が増えてきました。例会の意義を感じています。
話は変わりますが、この2月に総力を挙げて世界P.E.N.フォーラム
「災害と文化」を開催しました。このように大掛かりなものでなくとも、文
学イベントのような会を定期的に開催し、参画メンバーを増していく。例
会とも合わせて交流の場を地道に作り上げ継続させていくことが大切だ
と感じています。
[吉澤] 日本ペンクラブは、2010年には創立75周年を迎えます。国際
ペン大会の日本開催、75周年史の編纂など、75周年に向けての事業
も検討されはじめています。事務局長としては流れを作り、具体的な仕
組みをどのように作り機能させていくのか、きわめて重要なこととの認
識を持っています。
[高橋] いろいろ大変かと思います。
[吉澤] 法律が変わり、新しい公益法人制度に移行させていく動きがあ
ります。日本ペンクラブも定款や諸規則を見直し、新しい組織を作り上
げる必要があります。75周年と重ね合わせて、これら社会の動きにいか
にうまく対応させていくのか。これも、私にとって大きな役割だと思って
います。
[高橋] 日本ペンクラブは組織が非常に大きくなり、約2千人の会員が
います。公益法人法が変わるこの転換期に、事務局長の役割と責任は
大きなものがあります。ぜひ頑張っていただきたいと思います。
[吉澤] 日本ペンクラブは歴史も伝統もある組織です。新しい時代に少
しずつ対応していますが、まだまだ不備な面、流れに対応できていない
部分があります。
[鈴木] 会員数は減っていますが、事務局スタッフの人数の面ではいか
がですか?
[吉澤] 限られた資金のなかで、固定費である人件費が膨らむというの
は、なかなか難しい問題です。やみくもにスタッフの数を増やすわけに
はきません。2010年の国際ペン大会の日本開催に向けて、幸い国際
人として活躍を期待できる貴重なスタッフを確保することが出来まし
た。
[高橋] 各委員会が機能して、みんながボランティアで機能的に働い
てくれたらいいんだけれど、実際そうはいかない。となると、現在のス
タッフは少ないかもしれません。
[吉澤] 事務局長として、目的達成のために、会員の方々によって集め
られた浄財をいかに機能的に、効率的に使うか。それが一番の基本で
す。単にスタッフが多くいればよい、という問題ではないと思っていま
す。
[高橋] 日本ペンクラブは会費で成り立つ組織です。年間予算に対し
て、どうしても人件費の比率が高くなる。そろそろ日本ペンクラブの事
業収入を考え直していく時期にきていますね。
[吉澤] 同感ですね。いまは全体の収支の構成比として、会員収入は6
割強です。活動費の残り4割は寄付金とか、企画、監修の事業収入に
よるものです。この先企業のCSR事業に組み込んでいただく、あるいは
自治体、団体などと組んで地域文化の活性化に結びつけるような事業
を行なっていくなど、収入を上げていくために知恵を絞っていかなけれ
ばなりません。
[高橋] そのために、有能なボランティア人材をいかに確保するかです
ね。
●キーワードは「バランス感覚」
[鈴木] 通常の仕事プラス、世界P.E.N.フォーラムなどのイベントが
あったり、事務局長としてはいろいろ大変ですね。
[吉澤] イベントや国際大会は開催に大きなエネルギーが必要ですが、
それらを通じて日本ペンクラブ会員間の求心力が高まり、活動が世の
中にさらに認知されるという、いい面があります。大変だからといって止
めるのではなく、継続させていかなければなりません。
[鈴木] サントリー広報部と、現在の日本ペンクラブの事務局長の立場
で、組織を動かす面での違いはいかがですか。
[吉澤] 企業の場合は、社員が同じ企業文化と風土のなかで育ってい
ますから、同質のタイプが多いし、運営面では楽です。方向性が決まれ
ば推し進めやすい。日本ペンクラブはこの点ではまったく違います。
[穂高] 「思想信条の自由」という面で、日本ペンクラブは政治、思想の
中立性を保つ必要があります。このあたりはいかがですか。
[吉澤] 日本ペンクラブにきて一番感心したのは、特定の思想団体、特
定の政治に偏らない、常に独立独歩の道を歩いているという点です。権
威に屈するところがない。と同時に、活動は会員一人ひとりのボラン
ティアに支えられている。最も大切なことだし、感心した点です。
[高橋] 中道を行くことは大切なことです。会員のなかには思想的にいろ
いろな方がいます。それでも、「平和を守る、環境を守る、言論表現の自
由を守る」という点では、右も左もないわけです。
[吉澤] まさにそうです。
[高橋] メルマガの読者に、事務局長からのコメントをいただけますか。
[吉澤] 日本ペンクラブの知名度はかなり高いと思います。しかしなが
ら、日本ペンクラブの活動を理解している人は少ない。名前が先行して
いると思います。このギャップを埋め、活動を知っていただき、理解を深
めていただかなければなりません。メルマガを通じて活動を発信し続け
ていきますので期待してください。
[高橋] 日本ペンクラブは「言論の自由」「表現の自由」を守る団体で
す。新聞、雑誌、書籍、ネットを含めた、根幹の部分を支えている団体
です。日本ペンクラブが声明を出したら、「なるほどな」と思ってもらう。
「日本ペンクラブってなあに?」それではだめなんです。会員、一般の人
たちが支えてくれる。それでこそ、日本ペンクラブの発言と活動が力を
持つことになります。
[穂高] 事務局長のキーワードは何ですか。
[吉澤] 会員が、日本ペンクラブの会員であることへの誇りをもてる団
体であるべきです。それを推進するには、事務局は縁の下の力持ちで
ありながら、あるときは前に出て行く。事務局長としては、そのバランス
感覚が大切だと思っています。私のキーワードは「バランス感覚」です。
[高橋] メルマガの読者には、日本ペンクラブは言論の自由を守るため
に頑張っている、と知っていただきたい。日本ペンクラブが力を持つため
にも、ぜひ活動に注目し、支援していただきたい。
事務局長のバランス感覚で、よろしくお願いいたします。本日はありが
とうございました。
(構成:穂高健一)
=============================================
世界P.E.N.フォーラム『災害と文学』報告(2)──国内の出演者が語
る
---------------------------------------------------------------------------
今回は国内の作家、演奏者など出演者を紹介します。前回の海外から
の出演者と同様に、全員が一同に会した、リレー・トークのインターナ
ショナル・スピークアウトを柱として取上げます。
----------------------------------------------------------------------------
司会・進行役は制作統括の吉岡忍さん。会場と壇上の雰囲気を和らげ
るように、吉岡さんは自身の体験を語った。
約5千人の死者を出した伊勢湾台風のとき、吉岡さんはまだ子どもで
長野県にいた。同台風は名古屋の周辺にひどい災害をもたらした。長野
県はたいした被害ではなかったと、吉岡さんは語る。
「それでも、私の自宅の裏手には川があり、濁流の音に不安になった、
という記憶があります。大江健三郎さんの基調講演で語られていた、
『空襲で焼けた地方都市の復興による木材需要から、山林は乱伐され
た。嵐のたびに川の濁流が渦巻き、氾濫寸前で、不気味で怖かった』と
いう体験に、実によく似ています」
長野県にも全国から救援物資が送られてきた。吉岡さんの自宅にも、
紙包みが届けられたという。
「それはアイロンをかけすぎた、テカテカのセーラー服でした。考えてみ
たら、私は吉岡忍。男でも女でも通用する名前。救援物資を配ってくれ
た人が、私の名前を女と見たのでしょう。『ボクは男だぞ』と叫びたかっ
た」と会場を笑わせる。
吉岡さんは後々、取材で災害の被災地に行くと、人々はなぜ救援物資
を送るのかと考えるようになった。「被災者は可哀そうだ。それだけでな
く、災害のなかで、無事で『生きている』という姿に共鳴できるからだ、
と思うようになりました」と語った。
●出久根達郎『安政大変』
吉岡さんは国内参加者の一番バッターに、連作小説『安政大変』著者
の出久根達郎さんを指名した。
1855(安政2)年10月2日の夜、江戸に大地震があった。震源地は荒
川の河口付近。町方のみならず、江戸城や大名邸なども被害を受け
た。約7000人の死者を出した。53年、54年とペリー来航が続いた翌年
だった。
江戸城から小判4000枚が盗まれる、前代未聞の不祥事があった(犯
人は2年後に捕まった)。徳川幕府のタガがゆるみきっていた時代に、安
政地震が起きたのだ。
出久根さんは、自ら『安政大変』の一編、地震発生の寸前を描いた「お
みや」を講談風、落語風に朗読した。それは夜鷹(娼婦)と井戸掘り人足
の、ふたりのストーリーである。
作曲は森ミドリさん。森さんは定成淡紅子さんと打楽器も演奏した。男
声合唱(清水宏樹さん、武田直之さん、与儀巧さん)による労働歌(猥
歌)とともに、舞台を盛り上げた。
「私には、大きな災害に遭遇した経験はありません」という出久根さん
は、郷里の茨城県の鹿島神宮には、要(かなめ)石がある、という話題
を提供した。「境内にあるこの石が、日本の地震を起こす大ナマズを押
さえている、という伝説があります」。小さな石だが、実際は地中深くな
るほど、大きな石となり、地震国の日本を安全に導いている、と伝えら
れている。
出久根さんは小学校の遠足で鹿島神宮に行ったことがある。「これが
要石だよ」と、ガイドから案内を受けた。それが『安政大変』のモチーフ
のひとつになったという。
もうひとつは、「安政地震の直後には、江戸市中に大ナマズを擬人化し
たナマズ絵が出回りました。それは幕府への風刺をふくめた、現代でい
う漫画です。これが面白いものでした。これを素材として、小説を書い
てみたいと考えたわけです」と語った。
地震は貧富を問わず、平等に襲う。金持ちは悲しむが、元手のない庶
民は、地震は世直しの機運、これで儲けるんだと前向きに捉えていた
と、出久根さんは見なす。
「日本人は大きな地震にへこたれない。むしろ、地震を世直しとして捉
えている」と作品の切り口を語った。
井戸掘り人足が土を掘り、そこから埋蔵金が出てきた。人足と夜鷹が
黄金を手にしたとき、地震によって死んでしまう。「物語は、2人の死か
ら始まります。物語が逆に始まると考えてください」と説明した。
●俳句・短歌「阪神淡路大地震を詠む」
俳句・短歌「阪神淡路大地震を詠む」では、新聞、出版物に収録された
作品のなかから、15句の俳句と12首の短歌が選ばれた。同会場のス
クリーンには、同地震の被害の光景が生々しく映しだされた。そして、朗
読とともに一句ずつが映し出された。
俳句の選者は黒田杏子さん、朗読は下重暁子さん。短歌の選者は俵
万智さん、朗読は加賀美幸子さんだった。
インターナショナル・スピークアウトには、黒田杏子さんが参加した。吉
岡忍さんに指名された、黒田さんはこう語った。
「阪神淡路大地震の俳句を選ぶ機会が与えられ、大変ありがたいで
す。俳句を作る私は、これらの選考の過程で、巧拙を超え一つひとつの
作品からたいへん励まされました。悲しい句でも、その句から生きてい
く勇気を授けられました」と感慨深い表情で語った。
「俳句は1行17音字です。季語は5音か7音。それを除けば12字音か、
10音字しか残りません」。残されたわずかの字数のなかで、大震災の
体験や恐怖を鮮明に浮かび上がらせる。
「日本人はこういうすごい俳句を作る。それを改めて知りました」と、本番
のときに選評のひとつとして強調していた。
黒田さんは、新潟にある新聞社の俳句選者も受け持つ。中越地震の俳
句も毎日読んでいたという。「地震に遭ってまだ(地面が)揺れている、
その最中から投稿してくるんです。日本人はすごい」とくり返す。
「世界フォーラムに短詩系を入れてくださり、大変ありがたいです」と結
んだ。
●立松和平『浅間』
「災害と文化」のサブテーマは「叫ぶ、生きる、生きなおす」。その「生き
なおす」が強く前面にでた作品が立松和平さんの『浅間』だった。
1783(天明3)年5月、浅間山の大噴火で山ろくの鎌原村は溶岩流に
埋まり、大勢の村人が犠牲となった。死者は474人、生存者は93人で、
8割強の死者が出た。木材運搬の馬は200頭のうち170頭が死んだ。
草木もない不毛の地となったのだ。それでも、村人は鎌原村に戻って
いった。
立松和平さんは舞台で『浅間』の一部をみずから朗読した。16歳のゆ
いという少女の視点から物語が進められた。
7年前、ゆいは中仙道板鼻宿に3年間の年季奉公に出ていた。鎌原村
の困窮した家族のために、少女はみずから19歳まで宿場女となってい
た。客引き、旅籠の労働、旅の男にはからだの提供という辛い生活だっ
た。
宿場女のゆいは、老婆から蚕(かいこ)を育てる技術を教わり会得し
た。3年後の年季明けとともに、彼女は浅間山の噴煙が懐かしい鎌原村
に帰っていった。村人たちは、ゆいは宿場で見知らぬ男に肌を任せた女
だと蔑視の目でみていた。
ゆいは念願だった蚕を飼う仕事を始めた。浅間が小噴火でも、桑の葉
に灰が降り、決して楽なものではなかった。執念で、根気よく蚕を育て
た。やがて、馬子(まご)の万次郎と祝言をあげたゆいには女児が授かっ
た。村人とも溶け合ってきた。
小高い丘にある鎌原観音堂が村人の信仰の場だった。50段の石段を
登りつめた先にはお堂が立つ。
浅間山が鳴動とともに大噴火を起こした。真っ赤な溶岩流が鎌原村を
襲った。ゆいは50段の石段を登り、鎌原観音堂に逃げ込んだ。石段は
15段を残し、すべて溶岩で埋まった。夫の万次郎も老母も娘もお堂には
やってこなかった。
生きながらえた村人は、隣の干俣村を避難先とした。浅間山の噴火が
収まると、鎌原村の衆は話し合い、火山灰を被った不毛の地と知りなが
らも、同じ場所に帰っていったのだ。
村の長老が村おこしの提案をする。
「村を立て直すにも、家族がなければ、何をどう立て直すのかわから
なず、力もわいてきめえ。夫婦そろって生き残っている者は一組もねえ。
夫を失い、妻を流された者同士、めわせたらどうだべ」
男と女の好き嫌いで結婚相手を選択せず、歳が近いものを夫婦として
組み合わせる。そして、子どもや姑や舅をつけるという提案だった。
火山噴火で何もかも失った村人が、災害後の生きる力の原点を「夫
婦」、「家族」に求めたのだ。村人の合意の下に七組の夫婦が生まれ
た。そのなかにはゆいがいた。
インターナショナル・スピークアウトで、立松さんはこう語った。
「ボクは作品『浅間』を通して、苦しみのなかで人が成長していく姿を
描きたかった。火山噴火で村が壊滅した。村人はほとんど死んで、一家
に一人ずつくらいしか生き延びられなかった。その人たちは絶望のなか
でどうやって生きてきたか。家族を再構築して生き直してきた」と話す立
松さんは、そこに人間の強さがあるというのだ。
「村の記録を閲覧していましたら、たった一行、二行の文字で、(家族
の再構築を)見つけたのです。そこから物語を膨らませていきました。私
は火山噴火を書きたかったわけでなくて、災害後の人間の再生を書き
たかったのです」とモチーフとテーマを語った。
「現在ボクが取り組んでいる作品は、誰にも襲いかかってくる最大の
災難『老い』です。50代から人によってはアルツハイマー、パーキンソン
などの病気に遭う。すると、突然世界が変わるわけです。まわりに見え
る世界が変わっても充分に豊かに生きられる。老いは災害でなくて希望
にもなる。小説のなかでそれを追求しています」と新作への意気込みを
語った。
●黒坂黒太郎・矢口周美
「コカリナ」という楽器を吹いた、ミュージシャンの黒坂黒太郎さんが紹
介された。黒坂さんは、タイのクワイユーン・ルークジャンさんのエッセイ
『黄金の女たちの石』で、妻の矢口周美さん(オートハープ)とともに演
奏した。
「このコカリナには不思議な縁があります。新潟の中越沖地震で、海底
から五千年前の縄文時代の樹が出てきたのです。つい最近届いたの
で、コカリナに仕上げました。昨年の今頃は日本海の海底深くに眠り続
けていた樹です」と経緯を説明した。
「5000年前の海底の樹が何かに惹かれるように私のところに来て、
何かに魅かれるように私がコカリナとして作って、吹いたところ何ともい
えない音がして、しかも、こういう『災害と文化』のフォーラムに出させて
いただいて。一体何なんだろう? これは。自分でもよくわからないまま
でいます。そのうえ作品の文章にぴったりはまっていくので、何とも不思
議な縁です」と話す。
コカリナは樹の音色を出す楽器である。樹によって音色が変わる。「い
ま手にするコカリナからはどんな樹にもない、秋田杉にもない屋久杉に
もない、桜にもない不思議な音が出てきます。気のせいかなと思ってい
るんですが」と話した上で、童謡の一節を吹いた。会場からは大きな拍
手がわいた。
黒坂さんの妻・矢口周美さんは、新潟中越地震のときに何度も現地に
足を運んだという。山口小学校の生徒たちと出会った。村に帰れず、長
岡市内の大きな学校の片隅に居候していた。何度も何度も生徒と会っ
ているうち、校長先生から「文集ができたので、見てください」といわれ
たという。
1年目の文集は、辛かった、怖かったという嘆きの文章だった。2年目に
なると、「ありがたかった」「うれしかった」、そういう言葉がどのページに
もあふれていた。矢口さんは、その言葉に励まされたり感動したりした。
その文集の言葉を拾い集めて、『ありがとう』という歌を作った。そのな
かの3番を披露した。
「人は誰も一人では、生きていけないものだから、人生の宝物、震える
ほど、ありがたかった。いつかきっと、人のため、光りかがやく人になる。
何かお礼をしたいけれど、心をこめて、ありがとう。心をこめて、ありがと
う」
(構成:穂高健一)
=================================================
■日本ペンクラブ「電子文藝館」のご案内
4月に新しく掲載された文藝作品です。閲覧はすべて無料です。
*随筆
小張 アキコ(こばりあきこ 映画・舞踊評論家)「パリ 映画とバレエに魅せられて」
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/
=================================================
<<ぺんぺん草>>
日本ペンクラブビルは、黒い楕円形4階建ての、ちょっと変わった建物
です。2002年春の新築で、ぺんぺん草は生えていません。それまで事
務所は、赤坂の秀和レジデンシャルホテル内にありました。戦前から戦
後にかけては、銀座や丸の内のビルを転々とし、1958年からは有楽町
の朝日新聞社内に間借り、1971年に赤坂秀和レジデンシャルホテル
の6部屋を買い取り、事務所としてきました。
そして、2002年5月、日本ペンクラブ創立(1935年)以来67年目にし
て、ようやく一城の主となったわけです。
住所は日本橋兜町ですが、通りを隔てて目と鼻の先が日本橋茅場町3
丁目で、すぐ隣りが八丁堀1丁目。この辺り一帯は、江戸時代、与力・
同心の組屋敷があったところです。八丁堀(桜川)は埋め立てられてす
でになく、組屋敷があったころの町の面影もまったくありませんが、140
年前には朱房の十手に黒羽織を着流した八丁堀の旦那(同心)たちが
闊歩していたことを思うと、楽しくなります。
ちなみに、日本ペンクラブが赤坂の前に事務所を置かせてもらった有
楽町の朝日新聞社(現有楽町マリオン)は、江戸南町奉行所のあったと
ころです。
(高橋千劔破)


