国際P.E.N.憲章

国際ペン憲章とは

 国際ペン憲章は60年の間、会員を導き、団結させ、鼓舞してきました。その原則は1921年の国際ペン創立時にすでに見出すことができます。しかしながら、60周年を迎えた世界人権宣言と同様に、国際ペン憲章は第二次世界大戦の厳しい現実に晒されました。1948年のコペンハーゲン大会で採択されましたが、その採択までには22年という歳月を要したのです。

 国際ペンの初代会長ジョン・ガルスワーシーは1926年のベルリン大会後、国際ペン憲章の最初の3ヶ条を起草しました。すでに東西の作家の間に緊張が走り、国際ペンの性格をめぐって、政治的であるべきか、非政治的であるべきか議論が白熱したのです。ロンドンに戻るとガルスワーシー会長は国際ペンの創設者であるキャサリン・アミー・ドートン・スコットの書斎に籠もり、「国際ペンの行動の試金石となるよう」最初の3ヶ条を正式に書き上げました。ガルスワーシー会長の提案は1927年のブリュッセル大会で採択され、国際ペン憲章に今でも最初の3ヶ条として残っています。

 ドイツでナチズムが興隆し、憲章の原則は1933年ドブロブニク大会で試されることとなりました。数ヶ月前、ドイツでは本が焚書されました。H.G.ウェルス会長のもとで開催された大会では、代表者会議でガルスワーシー会長の原則をあらためて確認しました。

 次の日ドイツ代表は亡命中のユダヤ系ドイツ人作家が演説をしないように働きかけましたが、大会参加者の大多数はドイツの意見を退け、投票したばかりの原則を再度確認しました。ドイツ代表は大会を退席し、第二次世界大戦終了まで必然的に国際PENの活動に参加しなくなりました。

 1946年ストックホルムで開催された、第二次世界大戦後初の大会で、アメリカセンターは英国センターの支持を受け、2つの提案を提出しました。ひとつはペン会員に「ひとつの世界で平安にくらせるよう人間主義の代表として行動する」というものでした。いまひとつは検閲に対する提案でした。1947年のチューリッヒ大会でも提案の内容と言葉使いについて議論が続きましたが、ついに合意に達し、提案は国際ペンの第4条として採択されました。

 1948年の大会で代表者会議はペン憲章全体を承認しました。その原則は世界104ヶ国にある様々な145のペンセンターを導き、団結させています。

―ジョアン・リーダム・アッカーマン(Joanne Leedom-Ackerman)―
                             (前国際ペン副会長)

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