読者の庭

吉田 優子

よしだ ゆうこ 静岡県在住の主婦。1974年群馬県に生まれる。筑波大学で日本語・日本文化学を学び、卒業後何編もの短篇小説を秦恒平編輯「e-文庫・湖(umi)」に投稿している。 掲載作は、創作体験の中で実感したものを、気張らず、飾り気なく、誰しもの頷けるところまで論旨を追い、しかも「私小説」を一面的に断罪することなく、いわば「いい読者」の姿勢で読書の感想を一編の評論へ導いている。電子文藝館の作品が具体的にとりあげてあることも委員会は歓迎した。「私小説」は課題として大きい。さらなる展開やまた論争を「読者の庭」は期待している。

私小説という小説

   一、「純文学」イコール「私小説」

 

 かつて、「純文学」という用語は、「私小説」を意味したという。今日、「純文学」は、「通俗小説・大衆文学」に対する概念とするのが一般的であるが、過去には、芸術的な作品の多くが、「私小説」だったのである。

 

(註: 「純文学とは私小説のことである」と文壇内外で考えられていた時期の、当時識者二三の見解を、裏付けまでに挙げておく。

 1.「私はかの『私小説』なるものを以て、文学の、――といって余り広汎過ぎるならば、散文芸術の、真の意味での根本であり、本道であり、真髄であると思う。」久米正雄「『私』小説と『心境』小説」

 2.「私小説は当時の小説の最高の理想の典型であったと同時に、もっとも数多くの傑作を生んだ文学形式でした。」中村光夫『風俗小説論』

 3.「現実には『純』文学といえば、私小説乃至は私小説的作品ということにどうしてもなる。実際に多く文学賞を受けたり、批評家に問題にされる小説のほとんどが私小説または私小説的作品である。」十返肇「批評家の空転」)

 

 はじめ、それは私の耳に奇異に響いた。昨今の芥川賞作品に代表される純文学が、「私小説」ではないからである。より正確に言うと、それが「私小説」か否か、一読者には確かめようがなく、作者自ら、あるいは、作者とごく近しい人によって、「これは私小説です」と保証されない限り、虚構と見做すのが小説の本来だからである。今日、「私小説」とわざわざ銘打つか、『私小説』と(レトリカルにでも)題してみなければ、「私小説」とは受け取られない。もし、作中の出来事を、ほんとうにあったことだろうかと考える読者がいたら、それは、近代からつづく日本独特のリアリズムの素地の上に立っている人であろう。

 作者と作品の関係は、さまざまである。自身とまったく関係のない設定で書いている作者もいるであろうが、自身と関係のあることを書いている作者の方が圧倒的に多いと思われる。その場合でも、どの程度関係しているかは、またさまざまである。そして、書かれてあることが、どの程度作者と関わりがあるかは、他者にはわからないのが普通である。どこまでが「事実」で、どこからが「虚構」なのかは、一般の読者にはわからないし、事実をありのまま書いても、読者がそれを事実と受け取る保証はない。

 「事実」か「虚構」か――。その境界を見定めることは、作品と向き合う上で、重要ではない。大事なのは、作品が人間的「真実」を伝え得ているかであり、そこれそが、創作の追い求めるべきものであると、私は思っている。

 ゆえに、小説の中の出来事を、「ほんとうにあったことか」と、安易に想像することに、他人の私事を覗いてみたい人間の欲望を満たす以外、どんな意味があるのか、と思う。作品の価値は、私事を赤裸々に綴った蛮勇にあるのではなく、読む者に、冷冽な水の深くしみるがごとき、ときに胸をえぐられるような、感銘を与えうるかにある。

 しかし、ある種の小説群は、作品を読む者に、同時に、作者の生い立ちを知ることを強いてくる。小説の設定が、友人関係や家族構成に至るまで、作者自身の「事実」に、予め依っているからである。

 そこが、私の違和感を覚えた部分だった。小説を書いた人が小説家であるのは分かるが、その人生に波瀾のある人こそが小説家なのだといわんばかりの、論理の逆転を迫ってくる気がしたからである。

 島崎藤村や志賀直哉や瀧井孝作や吉行淳之介らの小説を読むとき、私の胸の底には、いつも「私小説」への疑問符が沈澱していた。日本の近代リアリズムの流れにある小説は、詳細な作家研究や解説なしには、作品の読みが成立し得ないのではないだろうか――。作品を読むごとに、疑問符が、一つまた一つと積み重なっていった。

 そんな折、「電子文藝館」にある十返肇の「文壇と批評」を知り、繰り返し読むうち、この評論が、胸の底の淀みに、流れを与えてくれるものであることがわかってきた。そこで、十返の「文壇と批評」を手がかりに、上記の作家たちの作品を再読し、「私小説」への私の疑問を整理してみたいと思う。

 

 

   二、連繋する小説

 

 「電子文藝館」にある瀧井孝作の『結婚まで』に、主人公の男が、結婚相手に決めた女性と連れ立って歩きながら、「雑誌の僕の長い小説読むだ」と、問いかける部分がある。「あれは、大体自分のことをかいたんで、僕は以前にはあんなことがあつた。が、かまわない」かと訊き、笹島さん(結婚相手)も「えゝ、事実と思ひましたわ。松子さんは、松子さんてかいてありましたわねえ、もう亡くなつたんですから。妾(わたし)それは別に、何も気に懸けませんわ」と答える。笹島さんと違い、「雑誌の僕の長い小説」を読んでいなかった私は、ここで大きく躓いた。

 主人公の「信一」は、千葉県の我孫子から京都の粟田口に転居した「菅さん」を訪ね、具合の悪い「菅さん」夫人の看護に来ている「笹島さん」を、恋するようになる。

 この女性のことは、「産婆とおぼえて居た信一は、年のいつた婦人とのみ思ひこむだが、会ふと未だ若かつた。」「彼女がいつもの手術着でない浴衣がけは初めてだが、浴衣の上から肩や腕はわり合にほつそりしてゐてしなやかに目にうつるのだつた」と書かれ、八王子に親たちのあることや、「菅さん」が「笹島さん」のために半幅帯を見繕ったが、「笹島さん」がその帯をしめたのは翌日だけで、普段のめりんすの帯に戻ったことから、「倹約屋」らしいなどとある。「信一」の関心の対象であるがゆえに、「笹島さん」については、外見・内面の描写に紙数が費やされている。

 一方「信一」については、三十歳であることと、「信一のかいた短篇集二冊と長い小説のある雑誌と、奥の室に見えた。笹島さんはそれをひまひまによむだ」とあることから、職業は小説家らしいとわかる程度で、「信一」が頻繁に訪れ、結婚の仲立になった「菅さん」との間柄さえ、どういうものなのか、読者にはわからない。「信一は大方自分の材料をかいた小説だから、笹島さんは自分に付いての知識は凡そ得ると思つた」とあるので、雑誌の長い小説とやらを読まないことには、読者には、『結婚まで』の背景がわからないらしい。

 ここで勤勉な読者は、謎の文書を解読しなければならないもどかしさ、煩わしさを感じながらも、図書館で瀧井の全集を探し、年譜を頼りに「雑誌の僕の長い小説」が、『無限抱擁』であることを突きとめるだろう。更なる探索に精を出し、「菅さん」が志賀直哉だということを知るかもしれない。

 しかし、もし、この作業を途中で抛棄してしまう読者がいたとして、それを不勉強だと、果たして責められるだろうか。『結婚まで』と『無限抱擁』は別の作品であり、つづきの作であるとのことわりはない。ことわりもせず、しかし、作品に描かれない事実に依ることで、あたかも「つづきである」というほどの大前提を、読者に暗黙に強いている。だがこのような、作品の外にある約束事が、いつの時代にも、どこの場所でも、守られうるものだろうか。

 

 「電子文藝館」にある、島崎藤村の『嵐』は、出産時の出血多量で妻を失った男の、遺された育ち盛りの子供たちとの暮らしを、みずみずしく綴った作品である。

 同じく「電子文藝館」にある『伸び支度』には、末娘の「袖子の母さんは、彼女が生れると間もなく激しい産後の出血で亡くなつた」とあり、やもめの父さんが、遺された子供たちとの暮しの中で、男手一つで育ててきた末娘の初潮を、感慨深く綴っている。明らかに『嵐』と同じ状況なので、読者は、二つの作品に登場する家族は同じであると理解する。

 そして、藤村の長編『新生』を読めば、ごくはじめの方に、「彼の妻は七人目の女の児を産むと同時に産後の激しい出血で亡くなつた」とあるので、これも、『嵐』『伸び支度』と同一地平にある作品だと、自然に読者は思う。更に、『嵐』と『伸び支度』では、子供は、男の子が三人、いちばん下に女の子の計四人になっているが、『新生』以前に、「長女の死。次女の死。三女の死」もあったことがわかる。

 この辺りまでくると、読者は、同一作者の幾つかの小説の内部に一致する登場人物や設定を連結部となし、一連の作品を系統立てれば、それが大きく作者の自伝を成すことに気づく。気づくことが可能になる。あるいは、それより先に、全集や文庫の解説や註で、小説の内容が、作者自身に起こった出来事だと学習しているかもしれない。解説や註がないと、読者には理解できないところがあまりに多々あり、読者の好むと好まざるとに関わらず、作者の年譜を踏まえざるを得ないのが、「私小説」の「読み方」になってくる。

 『新生』を読めば、『嵐』と『伸び支度』への経緯がよくわかるが、新たな不明点も生じる。こういう文章がある。

 

 岸本は好きな煙草を取出した。それを燻(ふか)し燻し園子との同棲の月日のことを考へて見た。

 「父さん、私を信じて下さい……私を信じて下さい……」

 左様言つて、園子が彼の腕に顔を埋めて泣いた時の声は、まだ彼の耳の底にありありと残つて居た。

 岸本はその妻の一言を聞くまでに十二年も掛つた。園子は豊かな家に生れた娘のやうでもなく、艱難にもよく耐へられ、働くことも好きで、夫を幸福にするかずかずの好い性質を有(も)つて居たが、しかし激しい嫉妬を夫に味はせるやうな極く不用意なものを一緒にもつて岸本の許へ嫁(かたづ)いて来た。

 

 ここでいわれている「激しい嫉妬を夫に味はせるやうな極く不用意なもの」が何であるかは、『新生』のどこにも書かれていない。いう必要がない、いわなくても分かるだろう、とでもいわんばかりに。では、藤村はどこでこのことについて書いているか。

 『新生』より更に遡った『家』に、妻には、実家の方に、結婚を誓った男性のいるのを知り、嫉妬に苛まれる三吉という人物が登場する。つまり、これが、『新生』の「岸本」、即ち藤村ということになる。

 このような、一作品では解決しない謎を、別の作品まで追ってゆかせる過程は、読者の勤勉さを篩にかける。秤にかける。裏返せば、作者の作品や筆力の、よく読者にあれからこれへと「読ませ・読み継がせる」力量が、厳しく問われる。求められる。要するに私小説作家では作品が一つ一つ完結しないというに同じく、やはりとても特殊なものといわねばならない。

 

 『新生』を読みはじめると間もなく、「嵐は到頭やつて来た。」という一文に出会う。フランスへの逃避行の契機になった、実の姪との肉体関係を、作中、藤村は幾度か「嵐」に譬えている。妻の死後、二人の幼い息子のいる岸本は、手伝いに来てくれている実の姪と、性的関係ができ、姪は妊娠、岸本はフランスへ逃れるが、第一次世界大戦勃発のため、仕方なく帰国する。そして姪との関係が復活し、姪は台湾へ遣られてしまう。「嵐」の一語は、この長い苦しみのはじまりを意味していた。

 『嵐』に、「家の内も、外も、嵐だ」という主人公の台詞がある。前後の文章から、子供四人がひしめく内も、不穏な世相の外も、という意味になっているが、作品の題に込められた深い感慨を、『嵐』以前の「嵐」を知り、私たちはようやっと理解する。

 『新生』の新聞連載がはじまり、間もなく姪が岸本に妊娠を告げる場面が発表されたとき、田山花袋が、「島崎君は自殺するのではないか」と心配したのは、「事実」の通りに書く藤村の創作方法が周知の事だったからに違いないが、藤村のような書き方も、花袋のような読み方も、今日の社会構造の中では通用しにくい。

 その理由は、十返の「『文壇』崩壊論」に明確である。

 

 最近では文学とマス・コミュニケーションとの関係が緊密になり、文学者の存在が社会化され、その書くものが「社会全体に届く」ものとならねばならなくなったことが、私小説を文学界の片隅へ押しやることになった。つまり文壇生活を題材にしたような小説では一般的な興味を誘わないから商品性を失い、作家の方でも書く気になれなくなった。作家は外部に題材を求めなければならず、したがってこれまでの文学者のように文壇生活を生活の全部としていたのでは作家としての職業を続行できなくなった。すくなくとも「文壇」への関心が生活の中で占める比率は減少してきた。当然、「文壇的交友」は少くなり、文壇的共感も薄弱になって来ざるを得なかったのである。文壇というものが生活の基盤としての意義を失い、ジャーナリズムがそれに取って代ってきた。

 

 他にも、ラジオ、テレビ、映画など、「文学が社会人に触れてゆく機関として、活字による方法以外のものが増加し」たことにより、「文学者はかつてない多くの人々を対象にして、ものを考えなければならなくなった」ことを挙げている。

 十返がこれを書いた昭和三十年代から、早や五十年、平成の世に生きる私が、明治大正、昭和初期の「私小説」に躓いたのは、不思議ではなかろう。

 

 

   三、私小説の陥穽

 

 十返は、「批評家の空転」の中で、吉行淳之介の私小説的作品である『闇のなかの祝祭』に触れ、作中の主人公の妻と、主人公の「惚れた」女優の、それぞれモデルとされる人物の傷つくことを心配する批評家たちの態度に対し、「批評家がモデルの心配までする必要はない」と反駁している。題材が事実であろうとなかろうと、一個の「作品」でしかないはずだと。

 吉行自身も、「この作品を書いたことによって、いろいろのことが起った」といっている。

 

 まず、文芸時評の大部分によってけなされ、わずかの人によって強く褒められた。ふやけたノロケ小説という評もあったが、やがてこの作品が余計な雑音から独立して読まれる時期がきたならば、そういう評が当たっていないことが分ってもらえるというのが、作者の自負である。(『私の文学放浪』)

 

 確かに「ふやけたノロケ小説」ではないと思う。「余計な雑音」とは、『闇のなかの祝祭』を告白記と読んだ批評家の放恣な憶測や、週刊誌によるスキャンダル扱いのことであろう。しかし、それらの「雑音」について知ろうと知るまいと、『闇のなかの祝祭』は、もどかしい思いのする小説である。

 「沼田沼一郎」が、妻の「草子」とのあいだに生まれたばかりの赤児の泣きやまない家を、「うるさくて、原稿が書けない。ちょっと散歩してくる」といって出かけるのが、冒頭場面である。「はっきりした目的をもって出かけてゆく充実した線が自分の背中に現われていることを感じ、その背中に貼り付いてくる妻の視線を感じ、彼はうしろめたい心持にな」る。彼のこのような「充実の気配」は、長い年月現われたことがなく、「それは、妻の眼から隠さねばならぬもののようにおもえた」。彼の目的は、映画館に入り、「都奈々子」の出演している映画を見ることである。奈々子は、「好きよ」というセリフをいうとき、「あなたのことで頭の中をいっぱいにしてお」く、と事前に彼にいってあるのである。

 妻子ある文筆業の男が女優と交際している設定が、まず示されてい、つづいて、別れないという妻と、奥さんと別れてほしいという女優のあいだで、沼田が板ばさみになっていることがわかってくる。彼は奈々子に「惚れて」いるが、結婚するつもりはない。なぜなら、「他人と一緒に生活してゆくことは、絶え間ない個性と個性とのたたかいだと思って暮した」経験があるからであり、「喰うか喰われるかのたたかい」に懲り懲りしているせいである。

 

 男と女とが一緒に暮してゆくために必要なものは、情熱でもなく、肉でもなく、それは忍耐にちがいない。相手の存在を燦めく光が取囲んでいたとしても、それはやがて消え去って、地肌の醜い部分が露出してくる。(中略)奈々子と暮すようになった場合も、それは例外ではない筈だ。

 

 以上は主人公の結婚観が語られている部分だが、そう思うに至った経緯は語られない。しかし、そこが読者のいちばん知りたい部分ではなかろうか。「草子からは、彼は全身の充実を感じることはできなかった。草子にたいしては、最初からそうなのだ。それなのに、彼は半年前に草子と結婚していた。」だけでは、読者は納得できない。

 妻の草子は、奈々子のところにいやがらせの電話を頻繁にかける女として描かれている。また、作家である夫にも、女優である奈々子にも劣等感を抱き、「どうせ、わたしは何にもできない女よ」と甲高い調子でいい、沼田が仕方なく余所に仕事場を借りると、妻の存在を管理人という第三者に誇示するため、付け届けをしておく抜かりなさである。それはまた、沼田が、仕事場に奈々子ばかりを引き入れないための、牽制ともとれる。そして、沼田の部屋に、薔薇の花束が送り届けられる。誰からという記述はないが、彼には「奈々子がいることを予想して、その花束は送り届けられたものとしか」思えず、彼は、どこまでも届いてくる草子の監視の眼を思い知らされる。

 『闇のなかの祝祭』には、奈々子とどのようにして出逢ったかは、記されていない。同様に、草子とのなれそめの記述もない。沼田の気持ちの向かっている奈々子との出逢いは、わからないなりに、「惚れて」いるのだということで、ある程度は納得できる。が、「全身の充実を感じる」ことのできない妻と、どうして結婚したのか。この大事なところを、書かなければならない場面が幾つもありながら、作者は避けて通っている。

 三角関係の膠着状態のつづく中、草子が精神科に入院し、担当の女医に、「奥さまとは、恋愛結婚ですか」と訊かれた沼田が、「恋愛ではありません。といって、見合でもありませんが、なんと言ったらよいか……」と答えを濁す場面がある。「そうすると、同情を愛情と勘ちがいしたというようなことですか」と詰められ、「草子とのことを正確に話すには、長い時間と労力が必要だ。その気分が彼にはなかったし、医師への答えとしてその必要もないと、彼は判断し」、女医には「そうですね、ま、そんなところです」と、とりあえず答えるが、「それとは違う。が、そのような気持も、彼の心の一部分に在ったことは確かだ」と独白する。妻との結婚の経緯を、これ以上詳しく記述した箇所はない。

 作者は、この場面でこそ、深く踏み込んで、妻との複雑に入り組んで歪んだ関係を書くべきであった。

 作中の主人公「沼田」は即ち吉行であり、担当の医師に対するのと同様、読者にも、「妻とのことを正確に話す気分」がないとみえる。理由は、吉行の随筆に求めることができる。

 

 結婚して間もなく娼婦の町に耽溺するようになったというのは、やはり常識に逆行していることで、その耽溺を光源として結婚に照明を当ててみれば、その結婚のかたちが浮かび上がってくる筈であり、作家として食指の動く題材だが、今のところその材料を使う気持はない。 (『私の文学放浪』)

 

 「その材料を使う気持はない」のは、「現在私は配偶者をいわゆる不幸な状態に置いてしまった。その状態から脱け出す方法について、私と彼女との考え方が正反対であるために、その状態はえんえんと続いてゆくことになる。前記の題材を書くことは、その不幸に追討をかけることである。文学のためにはそういうことは顧慮しない、という従来の私小説作家の心構えは私にはない」という、びっくりするほど開き直った理由を挙げている。

 作者はときに、読者自身に考えてもらう余地を残すため、作品の主題と関わる「謎」を、あえて詳らかにせず、読者に投げかけたままで作品を終えることがあるが、吉行の場合を、「リアリズムの脱落」とはいえても、「小説の謎」ということはできない。

 『闇のなかの祝祭』は、ゆえに、小説としては不完全なものになっている。ほかにも、奈々子のお腹に宿った命についても、どうなったかは言及されていない。「沼田」は吉行であると見做し、吉行の年譜や随筆に事の詳細を求めるしかないと、読者は諦める。

 

 伊藤整は、十返の「『文壇』崩壊論」の発表されたのと同じ一九五六年、「志賀直哉の方法」で、志賀作品への反発理由の一つに、「『自分のこと即ち作中人物のことは、説明するまでもなく読者に分っている筈だ』という、書かれざる部分の理解を読者に押しつける意識」を挙げている。「小説を小説らしくさせる条件を欠いた作家を挙げて攻撃するとすれば、近代日本の全作家が、それぞれ、決定的に落第しそうである」とまでいっている。

 更に、「通俗作家には、あまりそのような欠点もなく、しかし同時に本質的な鋭さもない」という指摘がつけ加えられている。これは、日本文学の抱えるまた一つ大きな問題であるが、今は措く。

 志賀の、亡くなった母に冷淡な祖母のエゴイズムを認めながら、それを書かない態度を、「書かなくても分る筈だ、ということであろう。」と想像する伊藤は、「しかし、このような点が、脱落して行かざるを得ないリアリズムが、心境小説系の私小説に常に現われるところの、私の客観性欠如」だと批判している。

 

 このような点は、家庭や親類のことを書く時には、脱落しがちなのであり、それが小説を小説として完了したものたらしめないところの、堤の破れ目なのだ、と私は思う。(「志賀直哉の方法」)

 

 伊藤の言は、『闇のなかの祝祭』にも、そのままあてはまる。

 せっかくフィクションを基底とする小説という手法で書いているにも関わらず、完全に仕上げられる方法を、なぜ彼らはとらなかったのか。

 彼らがシェイクスピアやドフトエフスキーやモーパッサンを読んだように、自身の作品を、後の時代の、または、海外の読者が手に取るであろうことを、夢想しなかったのであろうか、という疑問が、私小説作家に対し、どこまでもつきまとう。

 しかし、伊藤はこうもいっている。社会や家庭の環境の条件なしに理解される性質を持った『城の崎にて』を読み、感心し、「諸々の不満な点に関して、この作者の欠点を忘れ、ゆるしてやるという態度を取ることで、どうにか読むことが出来るようになった」と。

 伊藤のこの姿勢は、今日の私が、藤村や瀧井や吉行らの作品を読む際のものと、まったく同じである。また、「それを私にさせるだけの力がこの作家の作品の各所に散在していた」と感じる点も。

 藤村や瀧井や吉行らの小説を私に読み継がせるのは、独自の精確且つ優れた表現であり、いかに私小説特有の陥穽を備えていようと、自身の五感でつかまえた、細部まで揺るぎのない、生き生きした表現の力である。

 

 

   四、「玄人」・「素人」

 

 十返のいう「『文壇』崩壊」は、「文壇人」即ち「玄人」が、「文壇的論理の外にいる人」即ち「素人」に、あたかも駆逐されたごとく敗北したことを指している。以下は、「『文壇』崩壊論」の要約ともいうべき部分である。

 

 ところが、最近ことにこの一年、(中略)若い人たちの作品が商品価値をもって登場し、現代の読者に歓迎されて古い文壇的倫理によって育てられた人々が、いかに嫌厭(けんえん)したところでお構いなしに罷り通っている。文壇的倫理は完全に敗北したのである。十年も二十年も小説を書いて苦労してきたなどという履歴は、この現象の前にその無能をあらわし、これまで先輩について学んできた文学概念など作家となるには、なんらの役に立たないという事実を、今になって、彼らは身をもって痛感しなければならなかった。

 

 このあとには、「石原慎太郎を先頭とする一連の若い作家の社会的登場のあり方」が、「徐々として崩壊の過程をたどってきた文壇の完全崩壊を、今年とくに私に強く痛感」させ、前年、『太陽の季節』で芥川賞を受賞した石原慎太郎の「ジャーナリズムにおける扱われ方は、これまでの新作家にみないもので、ここに至って『文壇的』評価などは完全に黙殺された観があった」とつづく。

 

 また、以下は、大正十五年(一九二六年)に発表された、大宅壮一の「文壇ギルドの解体期」の一部分である。

 

 第一に「素人」の文壇侵入である。最近の著しい傾向は、まるで別な畑に育った人が、文芸的作品を発表して新聞雑誌の紙面を略奪しつつあることである。(中略)かくて彼ら「素人」は中央文壇からは一顧も与えられなくても、非文壇的文壇に於て着々その地位を築きつつあるのである。文壇的名声がなくても、「芸術味」が欠けていても、面白くさえあれば読者は食いつくものであるということに、ヂャーナリズムが気づいて来たのである。それどころか、貧弱な経験を水で薄めた文壇人の作品よりは、少々粗雑でも緊張味の多い「素人」のものを歓迎するようにさえなって来た。実際また実力の点に於ても、両者の区別が次第に消滅しつつあることは事実である。

 

 三十年を隔てた二つの文章を並べてみると、明らかな相似が見られる。十返は、大宅の定義にのっとって「文壇」という用語を使っているし、大宅の論にある、「玄人」と「素人」の相関関係は、昭和三十一年の十返の論文にも、あてはめることができる。そして、同様のことが、今日の文学についてもいえるのは間違いなく、十返の論より更に五十年下った平成においては、二者は相関関係を保ったまま、より「素人」側へ、全体の位置が大きくずれていることを考慮しなければならないだろう。

 

 では、近代から書き継がれてきた「私小説」は、今日、書棚から消えたのか、と考えるとき、私たちは、「純文学らしい藝術的な感銘を私たちが最近のどの文壇小説から受けたであろうか」という十返の言葉に戻って行かねばならない。

 小説の虚構性に重きを置く伊藤や中村光夫らの「私小説」批判は、至極もっともであったが、そのためばかりでなく、マスメディアの発達による社会の拡大によっても、「文壇」の崩壊が完遂され、身辺雑記風の小説、いわゆる「私小説」は通用しなくなった。それが証拠に、昨今出版される小説に、「私小説」はほとんど見られない。一見したところ、虚構を本来とする小説が主流を占めている。では、小説は、「私小説」的瑕瑾を修復し、健全に成り得たのであろうか――。

 残念ながら、そうは見えない。「純文学が、かつてのような生命の根源にふれる感動も、感嘆してやまないほどの技巧上の巧緻さも、実験の冒険性も失ってしまった」と十返の書いたのは、今から五十年前のことである。そしてそれは、強勢の一途を辿っていると思わざるを得ない。

 かつて、「生命の根源にふれる感動」や、「感嘆してやまないほどの技巧上の巧緻さ」や、「実験の冒険性」を持っていた「純文学」は、「私小説」であるがゆえの瑕瑾も持ちながら、個々の真実の瞬間を写しとってきた。以降、彼らの作品と並んで遜色のない作品が、どれだけ生まれたかと、私も問いたい。

 一体、彼らの創作に向かった厳しさは、受け継がれているのか、と。

 時代を経ても色褪せない「私小説」がある。優れた表現を達成したそれらを、「私小説」的瑕瑾のせいだけで、捨てるわけにはいかない。どこか、我々の時代が失ってしまったものを有しているようにも見えるそれらは、心底から小説が読みたいと欲する読者の前に、いつもある、存在している、に違いない。

 

(了) 06.06.15

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Yoshida Yuko
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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