招待席

竹内 浩三

たけうちこうぞう 詩人 大正10年(1921)〜昭和20年(1945) 三重県生まれ。昭和17年 (1942)9月、日本大学専門部映画科を半年間繰り上げて、卒業。在学中、伊丹万作の知遇を得る。昭和17年10月、三重県の中部第三十八部隊に入営。 昭和20年(1945)、公報によれば、「比島バギオ北方一〇五二高地にて戦死」。24歳で亡くなった詩人は、「なにもしなかったぼくは/こうして/何も せずに/死んでゆくよ/ひとりで」とうたった。主な著作に「筑波日記」、「骨のうたう」などがある。掲載作は、「竹内浩三全集(1)骨のうたう」 (1984年新評論刊)より、詩「骨のうたう」などを抄録。

骨のうたう(抄)

目次

骨のうたう

戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
遠い他国で ひょんと死ぬるや
だまって だれもいないところで
ひょんと死ぬるや
ふるさとの風や
こいびとの眼や
ひょんと消ゆるや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や

 

白い箱にて 故国をながめる
音もなく なんにもなく
帰っては きましたけれど
故国の人のよそよそしさや
自分の事務や女のみだしなみが大切で
骨は骨 骨を愛する人もなし
骨は骨として 勲章をもらい
高く崇められ ほまれは高し
なれど 骨はききたかった
絶大な愛情のひびきをききたかった
がらがらどんどんと事務と常識が流れ
故国は発展にいそがしかった
女は 化粧にいそがしかった

 

ああ 戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
こらえきれないさびしさや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や

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ぼくもいくさに征くのだけれど

街はいくさがたりであふれ
どこへいっても征くはなし かったはなし

 

三ケ月もたてばぼくも征くのだけれど
だけど こうしてぼんやりしている

 

ぼくがいくさに征ったなら
一体ぼくはなにするだろう てがらたてるかな

 

だれもかれもおとこならみんな征く
ぼくも征くのだけれど 征くのだけれど

 

なんにもできず
蝶をとったり 子供とあそんだり
うっかりしていて戦死するかしら

 

そんなまぬけなぼくなので
どうか人なみにいくさができますよう
成田山に願かけた

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演習一

ずぶぬれの機銃分隊であった
ぼくの戦帽は小さすぎてすぐおちそうになった
ぼくだけあごひもをしめておった
きりりと勇ましいであろうと考えた
いくつもいくつも膝まで水のある濠があった
ぼくはそれが気に入って
びちゃびちゃとびこんだ
まわり路までしてとびこみにいった
泥水や雑草を手でかきむしった
内臓がとびちるほどの息づかいであった
白いりんどうの花が
狂気のようにゆれておった

 

ぼくは草の上を氷河のように匍匐ほふくしておった
白いりんどうの花が
狂気のようにゆれておった
白いりんどうの花に顔を押しつけて
息をひそめて
ぼくは
切に望郷しておった

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演習二

丘のすそに池がある
丘のすすきは銀のヴェールである
丘の上につくりもののトオチカがある
照準の中へトオチカの銃眼をおさめておいて
おれは一服やらかした

 

丘のうしろに雲がある
丘を兵隊が二人かけのぼって行った
丘も兵隊もシルエットである
このタバコのもえつきるまで
おれは薄の毛布にねむっていよう

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望郷

       東京がむしょうに恋しい。

             カスバのペペル・モコみたいに、

             東京を望郷しておる。

 

あの街 あの道 あの角で
おれや おまえや あいつらと
あんなことして ああいうて
あんな風して あんなこと
あんなにあんなに くらしたに

 

あの部屋 あの丘 あの雲を
おれや おまえや あいつらと
あんな絵をかき あんな詩を
あんなに歌って あんなにも
あんなにあんなに くらしたに

 

あの駅 あのとき あの電車
おれや おまえや あいつらと
あああ あんなにあの街を
おれはこんなに こいしがる
赤いりんごを みていても

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Takeuchi Kozo
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on Jul 28, 2008
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