電子 文藝館 | | 招待席

藤田 文江

ふじた ふみえ 詩人。1908(明治41)年〜1933(昭和8)年。鹿児島県大島郡名瀬村生まれ。1926(昭和1)年、鹿児島女子師範学校を卒業。小学校の 教職に就くものの病弱のため退職、詩誌『南方楽園』の同人となる。その後、永瀬清子との文通が始まり、1933(昭和8)年、万国婦人博覧会に応募の詩が 一等入選、コロンビアから古関裕而作曲でレコード化された。「昭和鹿児島の紫式部」と地元紙は讃えたが、同年4月、腹部の激痛に見舞われ、4月24日24 歳で夭折。1933(昭和8)年3月刊行直後の第1詩集『夜の聲』(鹿児島詩話会刊)が通夜の席に届いた。
 ボードレールの影響をうけ、耽美的な詩をかいたが、詩人としての活動は6年ほどと短命で全国的に見ても著名ではない。しかし、死後数十年を経ても愛惜の 声は絶えず、1991(平成3)年に『夜の聲』が鹿児島詩話会の復刻委員会により東京の風濤社から復刻され、2005(平成17)年には鹿児島県のセダー 社から新装復刻版が刊行されている。掲載作は日本現代詩大系(河出書房)第10巻を底本とした。なお、文中に差別的な表現も見受けられるが、歴史的作品な ので、原文のままとした。

『夜の聲』抄

目次

誘惑

悪魔デ モン おまへはなかなか達者だね、
おまへは何だって
私をその様にさらつてゆかうとする。
勿論
私に巣くうてゐる
悒鬱ゆううつと いふ鳥は
度々おまへの 国を慕ふてゐた。

然し私ではない。
私ではないのだ。
まちがつてくれるな、たのむ。

昔、昔、ほんのちよつぴり
おまへの男つぷりに惚れたこともあつたけれど。

或る手紙(C)

いつか送つて下すつたミナト先生の
「霊を迎ふる浜辺の子等」は素晴しかつた。
おそらくそのゑは終生私の肌を離れないだらふ。
ブラマンク
コロー
ピサロ
セザンヌ
ゴッホ
ルノアル
ローランサン
私の好きだつた人々の誰も最早私には
残夢の如きものとなつてしまつた。
小さな,(コンマ)程の日本の国の北方に
かつて美しく生きてゐたその人に就いて
私はいろいろと思はずにはをれない
それにしても若いかくれた天才がすでに此の世にないといふことは
なんといふ大きな悲しみだらふ。
「親切でも下手な人はお医者様でもかなしい」といつた貴方の言葉を沁々思ひ出した。
おゝ
「眉と眉の間に雪の如くつもる哀哉」
どうしてもこれをあなたにうつたへずにはをれないのだ。
どうやら変な手紙になつてしまひました。
それに私も少しばかり疲れてきたので
こゝらでペンをおきませう。
さて又私は例の様に私自身にどならねばならない。
おまへはまるで気狂ひだ。
否、おまへはまるで乞食だ。

疾む

肉体は悲し噫、われは悉皆す べての書を読みぬ。ステファヌ・マラルメ

遂に闘ひに破れて夕日の様に
倒ふれてゐます。
私は毎日熱い海の上に
白い帆かけ舟を幾つも流してゐます。
それはまるで私の子供を流す様でもあり
貴方の子供を流す様でもあり
たまらなくおそろしいことです。
此の世にきびしく坐つてゐる距離といふものを
今日程うらめしく思つたことはありませぬ。

泣いてゐるこども

こちらをむくな。
寒い貌をむくるな。
私の方へ歩るマ マいて来るでない。
おろかな仕様のないこども。
私は眠らねばならないのだ。
かみさまも お眠り、
かみさまも お眠り、
だが、
私はやはり白い絹の寝巻の中で泣いてゐる声の方へ歩るいてゆく。
わかつてゐるよ、
わかつてるんだ、
涙をふいておやすみ。

桟橋にて

老いて寒い桟橋か れの顔に
言葉の様な時雨が降る。
誰を送つたのでもない出船のあとに
蒼ざめて立つ小石の様な女。

遠く波のしぶきの中に消えてゆく船体の背後に
私、しろがねの矢を放つて孤独なる己を思ふ。
はるかなる海路の果てにあるものを思ふ。
美しきもの懸垂せる国を思ふ。
心やさしき人の住める国を思ふ。

真冬、寥々と物さびて港は北風を噛む。
ふるへて喪失すな。
犯したる罪悪。白きあ しうら。現世につゞく桟橋。

棹さす

夜が来れば
冷たい地球の上で
眠りこける者、
彼等の気配もいつか止まつてしまつた。

初冬のとがつた星屑が
チカチカ窓掛に揺れてくると、
霜に凍つた小草のにほひが
額の上を渉る、

しあはせとは何であるか、
夜とは何であるか、
眠るとは、
すべて生優さマ マしいものが憎みたくなるのはどうした事か。

窓をあくれば霜月十日の月だ。
肌を裂かうとつめよせる夜気に
私のくさつた胸が厳しく顫へる、
夜鴉の様な寒い姿、
此処は地獄の手前だらう。

Fujita Humie
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on Nov 24, 2009
総目次