招待席
このあひゞきは先年仏蘭西(フランス)で死去した、露国では有名な小説家、ツルゲーネフといふ人の端物(はもの)の作です。今度徳富(=蘇峰・国民之友社主)先生の御依頼で訳して見ました。私の訳文は我ながら不思議とソノ何んだが、是れでも原文は極めて面白いです。
秋九月中旬といふころ、一日自分がさる樺(かば)の林の中に座してゐたことが有ツた。今朝から小雨が降りそゝぎ、その晴れ間にはおりおり生(な)ま煖(あたゝ)かな日かげも射して、まことに気まぐれな空ら合ひ。あわあわしい白ら雲が空ら一面に棚引くかと思ふと、フトまたあちこち瞬く間雲切れがして、無理に押し分けたやうな雲間から澄みて怜悧(さか)し気(げ)に見える人の眼の如くに朗かに晴れた蒼空(あおぞら)がのぞかれた。自分は座して、四顧して、そして耳を傾けてゐた。木の葉が頭上(づじやう)で幽(かす)かに戦(そよ)いだが、その音を聞(きい)たばかりでも季節は知られた。それは春先する、面白さうな、笑ふやうなさゞめきでもなく、夏のゆるやかなそよぎでもなく、永たらしい話し声でもなく、また末の秋のおどおどした、うそさぶさうなお饒舌(しやべ)りでもなかツたが、只漸(やうや)く聞取れるか聞取れぬ程のしめやかな私語の声で有つた。そよ吹く風は忍ぶやうに木末(こずゑ)を伝ツた。照ると曇るとで、雨にじめつく林の中のやうすが間断なく移り変ツた。或はそこに在りとある物総(すべ)て一時に微笑したやうに、隈(くま)なくあかみわたツて、さのみ繁くもない樺のほそぼそとした幹は思ひがけずも白絹めく、やさしい光沢(つや)を帯び、地上に散り布(し)いた、細かな、落ち葉は俄(には)かに日に映じてまばゆきまでに金色(こんじき)を放ち、頭(かしら)をかきむしツたやうな「パアポロトニク」(蕨の類ゐ)のみごとな茎、加之(しか)も熟(つ)え過ぎた葡萄(ぶだう)めく色を帯びたのが、際限もなくもつれつからみつして、目前に透かして見られた。
或はまた四辺(あたり)一面俄かに薄暗くなりだして、瞬(またゝ)く間に物のあいろも見えなくなり、樺の木立ちも、降り積ツた儘でまだ日の眼に逢はぬ雪のやうに、白くおぼろに霞(かす)む――と小雨が忍びやかに、怪し気に、私語するやうにパラパラと降ツて通ツた。樺の木の葉は著(いちじる)しく光沢(つや)は褪(さ)めてゐても流石に尚(な)ほ青かツた、が只そちこちに立つ稚木(わかぎ)のみは総て赤くも黄(きい)ろくも色づいて、をりをり日の光りが今ま雨に濡れた計(ばか)りの細枝の繁味(しげみ)を漏れて滑りながらに脱(ぬ)けて来るのをあびては、キラキラときらめいてゐた。鳥は一ト声も音(ね)を聞かせず、皆何処(どこ)にか隠れて窃(ひそ)まりかヘツてゐたが、只折節に人をさみした白頭翁(しゞふがら)の声のみが、故鈴(ふるすゞ)でも鳴らす如くに、響きわたツた。この樺の林へ来るまへに、自分は猟犬を曳いて、さる高く茂ツた白楊(はこやなぎ)の林を過ぎたが、この樹は――白楊は――全体虫がすかぬ。幹といへば、蒼味(あをみ)がゝツた連翹色(れんげういろ)で、葉といへば、鼠みとも附かず緑りとも附かず、下手な鉄物(かなもの)細工を見るやうで、而(しか)も長(たけ)一杯に頸(くび)を引き伸して、大団扇(おほうちは)のやうに空中に立ちはだかツて――どうも虫が好かぬ。長たらしい茎へ無器用にヒツ付けたやうな薄きたない円葉をうるさく振り立てゝ――どうも虫が好かぬ。この樹を見て快よい時と云ツては、只背びくな灌木(くわんぼく)の中央に一段高く聳(そび)えて、入り日をまともに受け、根本(ねもと)より木末(こずゑ)に至るまでむらなく樺色に染まり乍(なが)ら、風に戦(そよ)いでゐる夏の夕暮か、――さなくば空名残(なご)りなく晴れ渡ツて風のすさまじく吹く日、あをそら影にして立ちながら、ザワザワざわつき、風に吹きなやまされる木の葉の今にも梢をもぎ離れて遠く吹き飛ばされさうに見える時かで。兎に角自分は此樹を好まぬので、ソコデその白楊の林には憩(いこ)はず、わざわざこの樺の林にまで辿(たど)り着いて、地上わづか離れて下枝の生へた、雨凌(あめしの)ぎになりさうな木立を見立てゝ、さて其の下に栖(すみか)を構へ、四辺の風景を眺めながら、唯遊猟者のみが覚えの有るといふ、例の穏かな、罪のない夢を結んだ。
何(な)ン時(どき)ばかり眠ツてゐたか、ハツキリしないが、兎に角暫(しば)らくして眼を覚まして見ると、林の中は日の光りが到らぬ隈もなく、うれしさうに騒ぐ木の葉を漏れて、はなやかに晴れた蒼空がまるで火花でも散らしたやうに、鮮(あざや)かに見渡された。雲は狂ひ廻はる風に吹き払はれて形を潜(ひそ)め、空には繊雲(ちりくも)一ツだも留めず、大気中に含まれた一種清涼の気は人の気を爽かにして、穏かな晴夜の来る前触れをするかと思はれた。自分は将(まさ)に起ち上りてまたさらに運だめし(但し銃猟の事で)をしやうとして、フト端然と坐してゐる人の姿を認めた。眸子(ひとみ)を定めて能(よ)く見れば、それは農夫の娘らしい少女であツた。廿歩ばかりあなたに、物思はし気に頭を垂れ、力なさゝうに両の手を膝に落して、端然と坐してゐた。旁々(かたがた)の手を見れば、半(なかば)はむき出しで、その上に載せた草花の束ねが呼吸をするたびに縞のペチコートの上をしづかにころがツてゐた。清らかな白の表衣(うはぎ)をしとやかに着做(きな)して、咽喉元(のどもと)と手頚(てくび)のあたりでボタンをかけ、大粒な黄ろい飾り玉を二列に分ツて襟から胸へ垂らしてゐた。この少女なかなかの美人で、象牙をも欺(あざ)むく色白の額際(ひたひぎは)で巾の狭い緋(ひ)の抹額(もかう)を締めてゐたが、その下から美しい鶉色(うづらいろ)で、加之(しか)も白く光る濃い頭髪を丁寧に梳(とか)したのがこぼれ出て、二ツの半円を描いて、左右に別れてゐた。顔の他の部分は日に焼けてはゐたが、薄皮だけに却(かへつ)て見所(みどころ)が有つた。眼(まな)ざしは分らなかツた、――始終下目のみ使つてゐたからで、シカシその代り秀(ひい)でた細眉と長ひ睫毛(まつげ)とは明かに見られた。睫毛はうるんでゐて、旁々(かたがた)の頬にも亦蒼ざめた唇へかけて、涙の伝つた痕が夕日にはえて、アリアリと見えた。総じて首付が愛らしく、鼻がすこし大(おほき)く円すぎたが、それすら左(さ)のみ眼障りにはならなかツた程で。取分け自分の気に入ツたはその面(おも)ざし、まことに柔和でしとやかで、取繕ろツた気色(けしき)は微塵もなく、さも憂はしさうで、そしてまた愛度気(あどけ)なく途方に暮れた趣きも有ツた。たれをか待合はせてゐるのと見えて、何か幽(かす)かに物音がしたかと思ふと、少女はあわてて頭(かしら)を擡(もた)げて、振り反つて見て、その大方の涼しい眼、牝鹿のものゝやうにをどをどしたのをば、薄暗い木蔭でひからせた。クワツと見ひらいた眼を物音のした方へ向けて、シゲシゲ視詰めたまゝ、暫らく聞きすましてゐたが、軈(やが)て溜息を吐(つ)いて、静に此方(こなた)を振り向いて、前よりは一際(ひときは)低く屈(かゞ)みながら、また徐(おもむ)ろに花を択(え)り分け初めた。擦(す)りあかめたまぶちに、厳しく拘攣(こうれん)する唇、またしても濃い睫毛の下よりこぼれ出る涙の雫(しづく)は流れよどみて日にきらめいた。かうして、暫く時刻を移していたが、その間少女は、かわいさうに、みじろぎをもせず、唯折々手で涙を拭ひ乍ら、聞き澄ましてのみゐた、只管(ひたすら)聞き澄ましてのみゐた……フとまたガサガサと物音がした、――少女はブルブルと震へた。物音は罷(や)まぬのみか、次第に高まツて、近づいて、遂に思ひ切ツた闊歩の音になると――少女は起き直ツた。何となく心おくれのした気色(けしき)。ヒタと視詰め眼ざしにをどをどした所も有ツた、心の焦(あせ)られて堪へかねた気味も見えた。しげみを漏れて男の姿がチラリ。少女はそなたを注視して、俄にハツと顔を赧(あか)らめて、我も仕合(しあはせ)とおもひ顔にニツコリ笑ツて、起ち上らうとして、フトまた萎(しを)れて、蒼ざめて、どきまぎして、――先の男が傍に来て立ち留つてから、漸(やうや)くおづおづ頭を擡(もた)げて、念ずるやうに其の顔を視詰めた。
自分は尚ほ物蔭に潜みながら、怪しと思ふ心にほだされて、その男の顔をツクヅク眺めたが、あからさまにいへば、余り気には入らなかった。
是れはどう見ても弱冠の素封家(そほうか)の、あまやかされすぎた、給事らしい男で有つた。衣服を見れば故(ことさ)らに風流をめかしてゐるうちにも、また何処(どこ)となく止度気(しどけ)ないのを飾る気味も有ツて、主人の着故(きふ)るしめく、茶の短い外套(ぐわいたう)をはをり、はしばしを連翹色(れんげういろ)に染めた、薔薇色(ばらいろ)の頸巻をまいて、金モールの抹額(もかう)を付けた黒帽を眉深(まぶか)にかぶツてゐた。白襯衣(しろシヤツ)の角のない襟は用捨もなく押し付けるやうに耳柔をささへて、また両頬を擦り、糊で固めた腕飾りは全く手頸をかくして、赤い先の曲ツた指、Turquoise(宝石の一種)製のMyosotis(艸の名)を飾りに付けた金銀の指環を幾個ともなくはめてゐた指にまで至ツた。世には一種の面貌が有る、自分の観察した所では、常に男子の気にもとる代り、不幸にも女子の気に適(かな)ふ面貌が有るが、此男のかほつきは全くその一ツで、桃色で、清らかで、そして極めて傲慢(がうまん)さうで。己(おの)があらけない貌(かほ)だちに故意(わざ)と人を軽ろしめ世に倦(う)みはてた色を装(よそ)はふとして居たものと見えて、絶えず只さへ少(ち)ひさな、薄白く、鼠ばみた眼を細めたり、眉をしわめたり、口角を引き下げたり、強(しひ)て欠伸(あくび)をしたり、さも気のなさゝうな、やりばなしな風を装ふて、或は勇ましく捲き上ツたもみあげを撫でゝ見たり、または厚い上唇の上の黄ばみた髭を引張て見たりして――ヤどうも見て居られぬ程に様子を売る男で有ツた。待合せてゐた例の少女の姿を見た時から、モウ様子を売り出して、ノソリノソリと大股にあるいて傍へ寄りて、立ち止ツて、肩をゆすツて、両手を外套のかくしへ押し入れて、気の無さゝうな眼を走らしてヂロリと少女の顔を見流して、そして下に居た。
「待ツたか?」ト初めて口をきいた、尚ほ何処をか眺めた儘で、欠伸(あくび)をしながら、足を揺(うご)かしながら「ウー?」
少女は急に返答をしえなかツた。
「どんなに待ツたでせう」ト遂にかすかにいツた。
「フム」ト云ツて、先の男は帽子を脱した。さも勿体(もつたい)らしく殆ど眉際(まゆぎは)よりはへだした濃い縮れ髪を撫でゝ、鷹揚(おうやう)に四辺(あたり)を四顧(みまは)して、さてまたソツと帽子をかぶツて、大切な頭をかくして仕舞た。「あぶなく忘れる所よ。それに此の雨だもの!」トまた欠伸。「用は多し、さうさうは仕切れるもんぢやない、その癖動(やゝ)ともすれば小言だ。トキニ出立は明日(あした)になツた……」
「あした!」ト少女はビツクりして男の顔を視詰(みつめ)た。
「あした……オイオイ頼むぜ」ト男は忌々(いまいま)しさうに口早に云ツた、少女のブルブルと震へて差うつむいたのを見て。「頼むぜ『アクーリナ』泣かれちやアあやまる。おれはそれが大嫌ひだ」。ト低い鼻に皺を寄せて、「泣くならおれはすぐ帰らう……何だ馬鹿気た――泣く!」
「アラ泣(なき)はしませんよ」、トあわてゝ「アクーリナ」は云ツた、せぐり来る涙を漸(やうや)くの事で呑み込みながら。暫(しば)らくして、「それぢや明日(あした)お立ちなさるの。いつまた逢はれるだらうネー」
「逢はれるよ、心配せんでも。左やう、来年――でなければさらいねんだ。旦那は彼得堡(ペテルブルグ)で役にでも就きたいやうすだ」、トすこし鼻声で気のなさゝうに云ツて「ガ事に寄ると外国へ往くかも知れん。」
「若(も)しさうでもなツたらモウわたしの事なんざア忘れてお仕舞ひなさるだらうネー」、ト云ツたが、如何にも心細さうで有ツた。
「何故?大丈夫!忘れはしない、ガ『アクーリナ』ちツと是れからは気を附けるがいゝぜ、わるあがきもいゝ加減にして、をやぢの云ふ事もちツとは聴くがいゝ。おれは大丈夫だ、忘れる気遣ひはない、それはなア……イ」、ト平気で伸(のび)をしながら、また欠伸をした。
「ほんとに、『ヴヰクトル、アレクサンドルイチ』、忘れちやアいやですよ」。ト少女は祈るが如くに云ツた、「こんなにお前さんの事を思ふのも、慾徳づくぢやないから……おとつさんのいふこと聴けとおいひなさるけれど……わたしにはそんな事ア出来ないワ……」
「何故 (なぜ)?」ト仰(あ)ふ向けざまにねころぶ拍子に、両手を頭に敷きながら、宛(あたか)も胸から押し出したやうな声で尋ねた。
「なぜといツてお前さん――アノ始末だものヲ……」
少女は口をつぐんだ。「ヴヰクトル」は袂時計(たもとどけい)の鎖をいらひだした。
「ヲイ、『アクーリナ』、おまへだツて馬鹿ぢや有るまい」トまた話し出した、「そんなくだらん事をいふのは置いて貰はふぜ。おれはお前の為を思ツていふのだ、わかツたか?勿論お前は馬鹿ぢやない、やツぱりお袋の性(しやう)を受けてると見えて、それこそ徹頭徹尾いまのソノ農婦といふでもないが、シカシ兎も角も教育はないの――そんなら人のいふことならハイと云ツて聞(きい)てるがいゝぢやないか?」
「だツてこわいやうだもの」。
「ツ、こわい。何もこわいことはちツともないぢやないか? 何だそれは」、「アクーリナ」の傍へすりよツて「花か?」
「花ですよ」ト云ツたが、如何にも哀れさうで有ツた「この清涼茶は今あたしが摘んで来たの」トすこし気の乗ツたやうす「これを牛の子にたべさせると薬になるツて。ホラBur-marigole――そばツかすの薬。チヨイと御覧なさいよ、うつくしいぢや有りませんか、あたし産れてからまだこんなにうつくしい花ア見たことないのよ。ホラ myosotis、ホラ菫(すみれ)……ア、これはネ、お前さんにあげやうと思ツて摘んで来たのですよ」、ト云ひながら、黄ろな野艸(のぐさ)の花の下にあツた、青々としたBlue-bottle の細い草で束ねたのを取り出して「入(い)りませんか?」
「ヴヰクトル」はしぶしぶ手を出して、花束を取ツて、気の無さゝうに匂ひを嗅いで、そして勿体を付けて物思はしさうに空を視あげながら、その花束を指頭でまはしはじめた。「アクーリナ」は「ヴヰクトル」の顔をジツと視詰めた……その愁然(しうぜん)とした眼付のうちになさけを含め、やさしい誠心(まごころ)を込め、吾仏(あがほとけ)とあふぎ敬(うやま)ふ気ざしを現はしてゐた。男の気をかねてゐれぱ、敢(あへ)て泣顔は見せなかつたが、その代り名残(なご)り惜しさうに只管(ひたすら)その顔をのみ眺めてゐた。それに「ヴヰクトル」といへば史丹の如くに臥(ね)そベツて、グツと大負けに負けて、人柄を崩して、いやながら暫(しばら)く「アクーリナ」の本尊になつて、その礼拝祈念を受けつかはしてをつた。その顔を、あから顔を見れば、故(ことさ)らに作ツた堰蹇(えんけん=けんは、塞の土が足)恣き(しき=きは、推の手ヘンが目ヘン)、無頓着な色を帯びてゐたうちにも、何処(どこ)ともなく得得(とくとく)とした所が見透かされて、憎かつた。そして顧みて「アクーリナ」を視れぱ、魂が止(と)め度(ど)なく身をうかれ出て、男の方へのみ引かされて、甘へきつてゐるやうで――アヽよかツた! 暫(しばら)くして「ヴヰクトル」は……「ヴヰクトル」は花束を艸(くさ)の上に取り落して仕舞ひ、青銅の框(わく)を嵌(は)めた眼鏡を外套の隠袋(かくし)から取り出して、眼へ宛(あて)がはふとしてみた、がいくら眉を皺め、頬を捻(ね)ぢ上げ、鼻まで仰ふ向かせて眼鏡を支えやうとして見ても、――どうしても外れて手の中へのみ落ちた。
「なにそれは?」と「アクーリナ」がケヾンな顔をして尋ねた。
「眼鏡」と「ヴヰクトル」は傲然として答へた。
「それをかけるとどうかなるの?」
「よく見えるのよ」。
「チョイと拝見な」。
「ヴヰクトル」は顔をしかめたが、それでも眼鏡は渡した。
「こわしちやいけんぜ」。
「大夫丈ですよ」トこわごわ眼鏡を眼のそばへ持つて来て「ヲヤ何にも見えないよ」ト愛度気(あどけ)なくいツた。
「そ、そんな……眼を細くしなくツちやいかない、眼を」トさながら不機嫌な教師のやうな声で叱ツた。「アクーリナ」は眼鏡を宛(あ)てがツてゐた方の眼を細めた。「チヨツ、まぬけめ、そツちの眼ぢやない、こツちの眼だ」トまた大声に叱ツて、仕替える間もあらせず、「アクーリナ」の持ツてゐた眼鏡をひツたくツてしまツた。
「アクーリナ」は顔を赤くして、気まりわるさうに笑ツて、余所(よそ)をむいて、
「どうでも私たちの持つもんぢやないと見える」。
「知れた事サ」。
かわいさうに、「アクーリナ」は太い溜息をして黙してしまツた。
「アヽ『ヴヰクトル、アレクサンドルイチ』、どうかして、一所に居られるやうには成らないもんかネー」トだしぬけに云ツた。
「ヴヰクトル」は衣服の裾で眼鏡を拭ひ、再び隠袋(かくし)に納めて、
「それやア当坐四五日はちツとは淋しからうサ」ト寛大の処置を以て、手づから「アクーリナ」の肩を軽く叩いた。「アクーリナ」はその手をソツト肩から外(はづ)して、おづおづ接吻した。「ちツとは淋しからうサ」トまた繰返して云ツて、得々と微笑して、「だが已(やむ)を得ざる次第ぢやないか? マア積ツても見るがいゝ、旦那もさうだが、おれにしてもこんなケチな所にやゐられない、蓋(けだ)しモウぢきに冬だが、田舎(ゐなか)の冬といふやつは忍ぶ可(べか)らずだ、それから思ふと彼得堡(ペテルブルグ)、たいしたもんだ! うそとおもふなら往ツて見るがいい、お前たちが夢に見た事もない結構なものばかりだ。かう立派な建家、町、カイ社、文明開化――それや不思議なものよ!……」(「アクーリナ」は小児の如くに、口をあいて、一心になツて聞き惚れてゐた。)
「ト噺(はなし)をして聞かしても」ト「ヴヰクトル」は寝返りを打ツて、「無駄か。お前にや空々寂々だ」。
「なぜへ、『ヴヰクトル、アレクサンドルイチ』、わかりますワ、よく解りますワ」。
「ホ、それはおえらいな!」
「アクーリナ」は萎(しを)れた。
「なぜ此頃わさう邪慳(じゃけん)だらう?」ト頭をうなだれたまゝで云ツた。
「ナニ此頃わ邪慳だと……?」ト何となく不平さうで「此頃!フヽム此頃!……」
両人とも暫時無言。
「ドレ帰らうか」ト「ヴヰクトル」は臂(ひぢ)を杖に起ちあがらうとした。
「アラモウちツとお出でなさいよ」ト「アクーリナ」は祈るやうに云ツた。
「何故?……暇乞ひならモウ是れで済んでゐるぢやなひか?」
「モウちツとお出でなさひよ」。
「ヴヰクトル」は再び横になツて、口笛を吹きだした。「アクーリナ」はその顔をジツと視詰めた、次第々々に胸が波だツて来た様子で、唇も拘攣しだせば、今まで青ざめてゐた頬もまたほの赤くなりだした……
「ヴヰクトル、アレクサンドルイチ」トにじみ声で「お前さんも……あんまり……あんまりだ」。
「何が?」ト眉を皺めて、すこし起きあがツて、キツと「アクーリナ」の方を向いた。
「あんまりだワ、『ヴヰクトル、アレクサンドルイチ』、今別れたらまたいつ逢はれるか知れないのだから、なんとか一ト言ぐらゐ云ツたツてよさゝうなものだ、何とか一ト言ぐらゐ……」
「どういへばいゝといふんだ?」
「どういへばいゝか知らないけれど……そんな事(こつ)たア百も承知してゐるくせに……モウ今が別れだといふのに一ト言も……あんまりだからいい!」
「可笑(をか)しな事をいふやつだな! どういへばいゝといふんだ?」
「何とか一ト言くらゐ……」
「エーくどい!」ト忌々(いまいま)しさうに云ツて、「ヴヰクトル」は起ちあがツた。
「アラかに……かにして頂戴よ」ト「アクーリナ」は早や口に云ツた、辛うじて涙を呑み込みながら。
「腹も立たないが、お前のわからずやにも困る……どうすればいゝといふんだ?もともと女房にされないのは得心(とくしん)づくぢやないか? 得心づくぢやなないか? そんなら何が不足だ? 何が不足だよ?」トさながら返答を催促するやうに、グツと「アクーリナ」の顔を覗(のぞ)きこんで、そして指の股をひろげて手をさしだした。
「何も不足……不足はないけれど」ト吃(ども)りながら、「アクーリナ」もまた震へる手先をさしだして、「たゞ何とか一ト言……」
涙をはらはらと流した。
「チヨツ極(きま)りを始めた」、ト「ヴヰクトル」は平気で云ツた、後(うしろ)から眉間(みけん)へ帽子を滑らしながら。
「何も不足はないけれど」ト「アクーリナ」は両手を顔へ宛てゝ、啜(すゝ)り上げて泣きながら、再び言葉を続(つ)いだ、「今でさへ家にゐるのがつらくツてつらくツてならないのだから、是れから先はどうなる事かと思ふと心細くツて心細くツてなりやアしない……屹度(きつと)無理矢理にお嫁にやられて……苦労するに違ひないから……」
「ならべろならべろ、たんと並べろ」、ト「ヴヰクトル」は足を踏み替え乍ら、口の裏(うち)で云ツた。
「だからたツた一ト言、一ト言何とか……『アクーリナ』おれも……お、お、おれも……」
不意に込み上げて来る涙に、胸がつかえて、云ひきれない――「アクーリナ」は草の上へうつぶしに倒れて苦しさうに泣きだした……総身をブルブル震はして頂門で高波を打たせた……こらへに堪(こら)へた溜め涙の関が一時に切れたので。「ヴヰクトル」は泣(なき)くづをれた「アクーリナ」の背なかを眺めて、暫(しばら)く眺めて、フト首をすくめて、身を転じて、そして大股にゆうゆうと立ち去ツた。
暫くたツた……「アクーリナ」は漸く涙をとゞめて、頭を擡(もた)げて、跳(をど)り上ツて、四辺(あたり)を視まはして、手を拍(うつ)た、跡を追ツて駈けださうとしたが、足が利(き)かない――バツタリ膝をつひた……モウ見るに見かねた、自分は木蔭を躍り出て、かけよらうとすると、「アクーリナ」はフト振りかへツて自分の姿を見るや否や、忽(たちま)ち忍(しの)び音(ね)にアツと叫びながら、ムツクと跳ね起きて、木の間へ駈け入ツた、かと思ふとモウ姿は見えなくなつた。草花のみは取り残されて、歴乱として四辺に充ちた。
自分はたちどまった、花束を拾ひ上げた、そして林を去ツてのらへ出た。日は青々とした空に低く漂ツて、射す影も蒼さめて冷(ひやゝ)かになり、照るとはなくて只ジミな水色のぼかしを見るやうに四方に充ちわたツた。日没にはまた半時間も有らうに、モウゆうやけがほの赤く天末を染めだした。黄ろくからびた刈科(かりかぶ)をわたツて烈しく吹付ける野分(のわき)に催されて、そりかヘツた細かな落ち葉があはたゞしく起き上り、林に沿ふた往来を横ぎつて、自分の側を駈け通ツた、のらに向いて壁のやうにたつ林の一面は総てざわざわざわつき、細末の玉の屑を散らしたやうに、煌(きらめ)きはしないが、ちらついてゐた、また枯(か)れ艸(くさ)、莠(はぐさ)、藁(わら)の嫌ひなくそこら一面にからみついた蜘蛛(くも)の巣は風に吹き靡(なび)かされて波たツてゐた。
自分はたちどまった……心細く成ツて来た、眼に遮(さへぎ)る物象はサツパリとはしてゐれど、おもしろ気(げ)もおかし気もなく、さびれはてたうちにも、どうやら間近になツた冬のすさまじさが見透かされるやうに思はれて。小心な鴉(からす)が重さうに羽ばたきをして、烈しく風を切りながら、頭上を高く飛び過ぎたが、フト首(かうべ)を回(めぐ)らして、横目で自分をにらめて、急に飛び上ツて、声をちぎるやうに啼きわたりながら、林の向ふへかくれてしまツた。鳩が幾羽ともなく群をなして勢込んで穀倉の方から飛んで来たが、フト柱を建てたやうに舞ひ昇ツて、さてパツと一斉に野面(のづら)に散ツた――ア、秋だ! 誰だか禿山(はげやま)の向ふを通ると見えて、から車の音が虚空に響きわたツた……
自分は帰宅した、が可哀さうと思ツた「アクーリナ」の姿は久しく眼前にちらついて、忘れかねた。持帰ツた花の束ねは、からびたまゝで、尚(な)ほいまだに秘蔵して有る………………………
(明治二十一年七ー八月)