招待席・主権在民史料
まつむら べんじろう 掲載史料は、明治十三年(1880)四月、陸軍歩兵伍長松村辨治郎が提出した国会開設建白書。徹して天賦人権論の立場から国会開設をつよく要請し、また憲法制定のため「国民議会」の先設・開催も提言。一兵士による建白書提出という行動に、国会開設運動の当時の広がりと願望のつよさをひしひしと読み取ることができる。秋月種樹の『纂輯国会建白』二に拠る。
布衣(ふい =官位のない私民)松村辨治郎、謹(つつしみ)テ大日本帝国廟堂(べうだう)ノ有司諸彦閣下(いうし・しよげん・かつか)ニ白(まう)ス。辨(=治郎)倩々(つらつら)方今我国家ノ体勢ヲ察スルニ、事々物々其煩夥(そのはんか)ナルコト一々枚挙討論スルニ遑(いと)マ有ラズト雖(いへど)モ、就中(なかんづく)国会開設ヲ以テ最モ焦眉ノ急務ト為ス。是レ固(まこと)ニ徒然(とぜん)ニ非(あら)ズ、又タ一時ノ客気ヨリ奮発セシニ非ザル也。蓋(けだ)シ時運ノ潮(てう)スル所、人心ノ嚮(むか)フ所、儼々然(げんげんぜん)トシテ容易ニ変動ス可(べ)カラズ。嗚呼(ああ)、国会開設ノ好機既已(すで)ニ至レリ矣(い)。偖(さ)テ此好機ヲ忽諸(こつしよ)ニ附シテ、将(は)タ何(イヅ)レノ秋(とき)ヲ期(ま)タンヤ。辨伏シテ冀(こひねが)ハクハ、有司諸彦モ亦(ま)タ宜シク匡済賛翼(きやうさい・さんよく)シテ速(すみや)カニ成就ノ功ヲ彰(あら)ハサレンコトヲ。若(も)シ之レニ反シテ尚早ノ二字ニ帰セラルヽニ至テハ、斯民(しみん)ハ復(ま)タ之レヲ何処(いづく)ニ訴ヘンヤ。天ニ訴フ可キ歟(か)、曰(いは)ク不可也。地ニ訴フ可キ歟、曰ク不可也。彼レニ訴へズ此レニ訴へズ、然(しか)ラバ将(は)タ之レヲ奈何(いか)ン為ス可キ歟(か)。辨窃(ひそ)カニ按ズルニ、或ハ斯民ハ敢為(かんゐ)奮進シテ、愈々(いよいよ)中央廟堂ニ訴フルニ他ナカル可シ。而(しか)シテ尚ホ亦タ容レラレズンバ則チ、凌轢(りようれき)ヲ上下官民ノ間(かん)ニ醸生シ、腸胆ヲ原野ニ曝露シ血液ヲ道路ニ塗流スルニ至ルモ、得テ而シテ測度(そくたく)ス可カラズ。是レ辨ノ夙(つと)ニ痛患スル所、況(いは)ンヤ志気慷慨ノ士大夫(しだいぶ)ニシテ誰カ痛患ニ耐(たへ)ンヤ。果シテ然(しから)バ、安(いづくん)ゾ能ク我(わが)大日本帝国ヲシテ欧米各国ト対峙シ、永ク富岳ノ安キニ措(お)クコトヲ得ンヤ。曰ク、能(あた)ハザル也。啻(た)ダ能ハザルノミナラズ、又タ恐ラクハ国家土崩(どほう)ノ禍(くわ)ヲ来タサンコトヲ。然リ而(しかう)シテ其(その)尚早(なほはや)キノ二字ニ至テハ、辨請(こ)フ、左ニ概論セン。
抑(そもそ)モ不学且(かつ)無識ナルヲ以テ是レ之(これ)ヲ謂フ歟(か)。曰ク、然り、豈(あ)ニ其レ然(しか)ラン哉。何トナレバ、凡ソ技術智識ナル者ハ、或ハ活物ニ触レテ其実(そのじつ)ヲ感発スルモノ多ケレバ也。故ニ曰ク、宜シク速カニ国会ヲ開設シ、斯民(しみん)ヲシテ政府ノ事ニ参与セシムルニ在リ。然(しかれ)バ則チ自カラ其技術智識ヲ熟達活用ス可キ也。由是推之(これによりこれをおすに)、斯民ノ開達ヲ俟(ま)タンヨリ、寧(むし)ロ之ヲ開設シテ一挙両得ノ簡策ヲ得ルノ優(まさ)レルノ如(し)カザルヲ証明ス。而シテ上下一致協力シテ、不断(たへず)我大日本帝国ト憂楽存亡進退起居ヲ与倶(とも)ニセシメバ、所謂(いはゆ)ル其盤石(そのばんじやく)タルコト復タ疑(うたがひ)ヲ容(い)レズ。況(いは)ンヤ国家ナル者ハ大活機ニシテ、一人一個ノ左右ス可キ者ニ非ザルニ於テヲ乎(や)。然リト雖モ之レヲ拒(こば)ム者ハ必ズ謂(い)ハン、曰ク、此堂々タル国家ヲシテ不学且(かつ)無識ナル矇民ノ掌裏ニ帰セシムルヤ、猶ホ赤子(せきし)ニ宝璽ヲ授与スルト一般ニシテ、徒(いたづ)ラニ玩弄破毀スルニ過ギズト。何ゾ妄想過言ノ甚ダシキヤ。斯民赤子ナレバ拒者(こばむもの)モ亦タ均シク赤子ナル、悪(いづくん)ゾ大同小異ダモ之レ有ランヤ。尚ホ甚太(はなはだ)シキニ至テハ、苟(いやしく)モ国会開設ヲ渇望スル者ハ一ニ之(これ)ヲ目(もく)シテ心得違(こころえちがひ)トナス。是レ痴愚ニ非(あら)ズンバ則チ狂姦ナリ矣(い)。是ヲ以テ、辨之ヲ措(おい)テ弁解ヲ要セズ。辨私(ひそ)カニ請フ、有司諸彦ニ純然トシテ此(この)腐論妄説ヲ排斥シテ、斯民自主自由ノ権理ヲ匡済賛翼セラレンコトヲ。拒者(きよしや)ノ如キ者ハ洵(まこと)ニ悪(にく)ム可クシテ、所謂(いはゆ)ル我大日本帝国ノ讐敵(しうてき)ニシテ、又タ斯民天賦ノ自主自由ノ権理ヲ賊害スルノ蠹虫(とちゆう)ト云フモ過言ニハ非ザル可シ。有司諸彦、以テ如何(いかが)ナス乎(か)。然リ而シテ世論者ノ紛々論評スル所ノ国会開設ト国憲組成トノ前後順序ノ如何(いかん)ニ至テハ容易ニ取捨シ難シト雖モ、辨考フルニ、就中(なかんづく)特別ノ国民議会ヲ開テ之レヲ起草スルノ最モ適要良策タルヲ確証ス。今(い)マ其理由ヲ掲論セント欲スルモ、数有枚紙ノ能ク尽ス処ニ非ザレバ姑(しば)ラク之レヲ略ス。有司諸彦、之レヲ要サバ更ニ辨ニ申付(しんぷ)セラレヨ。然ラバ則チ之ヲ稿セン。以上喋々(てふてふ)スル所ハ、元来辨ノ嘴(くちばし)ヲ容(い)ルヽ所ニ非ズ。而シテ之ヲ容ル、蓋(けだ)シ愛国ノ赤腸自(おのづ)カラ禁ズル能ハザレバ也。乃(すなは)チ辨ガ意見ノ概略ヲ開陳シ、敢テ廟堂有司諸彦ノ匡済賛翼ヲ仰ガント欲(ほつ)ス。若(も)シ忌憚ニ触ルヽアラバ、則チ万死モ尚ホ鴻毛ノ軽キヨリ軽シ矣(い)。辨矇昧頓首再拝。
明治十三年庚辰(かのえたつのとし)四月下旬
寓于白鷺城
陸軍歩兵伍長
布衣 松村辨治郎
奉大日本帝国廟堂有司諸彦于閣下