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泉 鏡花

いずみ きょうか 小説家。明治6(1873)年〜昭和14(1939)年。石川県金沢市生まれ。帝国藝術院会員。日本語表現の魔術と賞賛された天才の一人で、古今独歩の美しい幻想境を歩む一方、愛憎の念とともに日本社会の虚栄虚飾に批評の視線を鋭く刺しこみ、自ら弱者との共同歩調を生涯堅持した。その思想と姿勢とを象徴的に打ち出した世界は「海=水」、その主たる龍・蛇は生涯の作品に隠見して優れた主題性を示している。掲載作は大正2(1913)年「中央公論」に発表。尖鋭な寓喩的批評を通じて鏡花のかかえた多彩で深い課題を集約した傑作である。
関連作品:「龍潭譚

海神別莊

現代
場所 海底の琅玕らうかん殿。
人物 公子。 沖の僧都(年老いたる海坊主)。 美女。 博士。
女房。侍女(七人)。黑潮騎士(多數)。
森嚴藍碧なる琅玕らうかん殿裡でんり黑影こくえいあり。──沖の僧都。

 僧都  お腰元衆。

 侍女一 (薄色の洋裝したるが扉より出づ)はい、はい。これは御僧おそう

 僧都  や、目覺しく、美しい、かはつた扮裝いでたちでおいでなさる。

 侍女一 御挨拶でございます。美しいかうかは存じませんけれど、かはつた支度したくには違ひないのでございます。若樣、かねてのお望みが叶ひまして、今夜お輿入こしいれのございます。若奥樣が、島田のおぐし、お振袖と承りましたから、私どもは、餘計其のお姿のお目立ち遊ばすやうに、皆して、やうに申合せましたのでございます。

 僧都  はあ、てもお似合ひなされたが、何處いづこの浦の風俗ぢやらうな。

 侍女一 度々たびたび海の上へお出でなさいますもの、よく御存じでおあんなさいませうのに。

 僧都  いや、荒海を切つて影をあらはすのは暴風雨あらしの折から。如法によほふ大抵暗夜やみぢやにつて、見えるのは墓の船に、死骸のうごめ裸體はだかばかり。色ある女性によしやうきぬなどは睫毛まつげにも掛りませぬ。さりとも小僧のみぎりはの、蒼い炎の息を吹いても、素奴しやつ色の白いはないか、袖の紅いはないか、と胴の間、狹間はざま、帆柱の根、錨綱の下までも、あなぐりさがいたものなれども、孫子まごこけ、僧都そうづに於ては、久しく心にも掛けませいで、一向に不案内ぢや。

 侍女一 (笑ふ)精進しやうじんでおいで遊ばします。もし、これは、櫻貝、蘇芳貝すはうがひ、いろいろの貝をしべにして、花の波が白く咲きます、其の渚を、靑い山、綠の小松に包まれて、大陸のをんなたちが、夏の頃、百合、桔梗、月見草、夕顏の雪のよそほひなどして、あさひの光、月影に、はるか(高濶なる碧瑠璃へきるりの天井を、髮艶やかに打仰ぐ)姿を映します。あゝ、風情な。美しいとながめましたものでございますから、私ども皆が、今夜は此の服裝なりに揃へました。

 僧都  一段とお見事ぢや。が、朝ほど御機嫌伺ひに出ました節は、御殿、お腰元衆、いづれも不斷の服裝なりでおいでなされた。其の節は、今宵、あの美女がこれ輿入こしいれの儀はまだきまらなんだ。地體ぢたい人間は決斷が遲いにつてな。……それぢやに、かねてのお心掛こゝろがけか。弥疾いやとなりが間に合うたものなう。

 侍女一 まあ、貴老あなたは。私たち此の玉のやうなみんなの膚は、白い尾花の穗を散らした、山々の秋の錦が水に映るとおんなじに、うと思へば、つい其れなりに、思ふまゝ、身のよそほひの出來ます體で居りますものを。貴老あなたはお忘れなさいましたか。
貴老は。……貴老だとて違ひはしません。緋の法衣ころもを召さうと思へば、お思ひなさいます、と右左、峯に、一本ひともと燃立つやうな。

 僧都  ま、ま、分つた。(腰をかゞめつゝ、おさふるが如くたなそこを擧げて制す)何とも相済まぬ儀ぢや。海の住居すまひ難有ありがたさに馴れて、蔭日向かげひなた、雲の往來ゆききに、うしほの色の變ると同樣。如意によい自在心のまゝ、立處たちどころに身のよそほひの成る事を忘れて居ました。
 なれども、僧都そうづが身は、うした墨染の暗夜やみこそけれ、なまじ緋のころもなどまとはうなら、づぶぬれ提灯ちやうちんぢや、戶惑とまどひをした鱏の魚ぢやなどと申さう。おしも石も利く事ではない。(細く丈長きくろがねの錨をさかしまにしてたづさへたる杖を、かろく突直す。)
いや、又忘れては成らぬ。忘れぬ前に申上げたい儀で罷出まかりでた。若樣へお取次を賴みましよ。

 侍女一 かしこまりました。唯今。……あの、ちやうい折に存じます。

右の方闥かたドアはいして行く。

 僧都  (謹みたるていにて室内をみまはす。)はあ、爭はれぬ。法衣ころもの袖に春がそよぐ。(錨の杖を抱きてたゝずむ。)

 公子  と押す、ドアひらきて、性急に登場す。おも玉の如く臈丈らふたけたり。黑髮を背にさばく。靑地錦の直垂ひたゝれ黃金こがねづくりのつるぎく。上段、一階高きゆかの端に、端然として立つ。)い、見えたか。

侍女五人、以前の一人を眞先に、すらすらと從ひ出づ。いづれも洋裝。第五の侍女、年最もわかし。二人は床の上、公子の背後うしろに。二人は床を下りて僧都の前に。第一の侍女は其のうしろに立つ。

 僧都  は。大床おほゆかひざまづく。控へたる侍女一、くだんの錨の杖を預る)これはこれは、御休息の處を恐入りましてござります。

 公子  (親しげに)爺い、用か。

 僧都  紺靑こんじやう、群靑、白群びやくぐん、朱、へき御藏おくらの中より、此のたびの儀に就きまして、先方へお遣はしに成りました、品々のたぐひと、數々を、念のために申上げたうござりまして。

 公子  (立ちたるまゝ) おゝ、あの女の父親につた、陸で結納ゆひなふとか云ふものの事か。

 僧都  はあ、いや、御聡明なる若樣。若樣にはお覺違おぼえちがひでござります。彼等夥間なかまに結納と申すは、親々が縁を結び、媒酌人なかうどの手を以ち、婚約の祝儀、目録を贈りますでござります。然るに此度このたびは、先方の父親が、若樣の御支配遊ばす、わたつみの財寶に望を掛け、もし此の念願の届くに於ては、眉目みめ容色きりやう、世にたぐひなき一人の娘を、海底へ捧げ奉る段、しかと誓ひました。即ち、彼が望みの寶をおつかはしに成りましたにつて、是非に及ばず、誓言せいごんの通り、娘を浪に沈めましたのでござります。されば、お送り遊ばされた數の寶は、彼等が結納と申さうより、俗に女の身代みのしろと云ふものにござりますので。

 公子  (輕く頷く)よしなんにしろ些少すこしばかりの事を、別に知らせるには及ばんのに。

 僧都  いやいや、鱗一枚、一草ひとくさ空貝うつせがひとは申せ、僧都がうけたまはりました上は、活達なる若樣、やうな事はお氣煩きむづかしうおいでなさりませうなれども、おいのしやうがに、お耳に入れねば成りませぬ。お腰元衆もお執成とりなし(五人の侍女に目遣す)平にお聞取りを願はしう。

 侍女三 若樣、お座へ。

 公子  (顧みて)椅子を此方こちらへ。

侍女三、四、兩人して白き枝珊瑚の椅子を捧げ、床の端近に据う。大楕圓形の白き琅玕らうかんの、沈みたる光澤を帶べる卓子、上段の中央にあり。枝のまゝなる見事なる珊瑚の椅子、紅白二脚、紅きは花の如く、白きは霞の如きを、相對して置く。侍女等が捧出さゝげいでて位置を變へて据ゑたるは、其の白きかた一脚なり。

 僧都  眞鯛大小八千枚。ぶりまぐろ、ともに二萬疋。鰹、眞那鰹、おのおの一萬本。大比目魚おほひらめ五千枚。きす魴鮄ほうぼうこち鰷身魚あいなめ目張魚めばる藻魚もうを、合せて七百籠かご若布わかめの其の幅六丈、長さ十五ひろのもの、百枚一卷九千聨。鮟鱇あんかう五十袋。虎河豚とらふぐ一頭。大のたこ一番ひとつがひ。さて、別に又、月の灘の桃色の枝珊瑚一株、丈八尺。(此のぶん、手にて仕方す)周圍まはり三抱みかゝへの分にござりまして。えゝ、月の眞珠、花の眞珠、雪の眞珠、いづれも一寸の珠三十三りふ、八分の珠百五粒、こう寶玉三十くわおほきさ鶴の卵、粒を揃へて、此はあを瑪瑙の盆にかざり、りよく寶玉、三百顆、孔雀の尾の渦卷の數に合せ、紫の瑠璃の臺、五色に透いて輝きまする鰐の皮三十六枚、沙金さきんの七十包袋たい量目はかりめ約百萬兩。閻浮檀金えんぶだごん十斤也。緞子どんす縮緬ちりめん、綾、錦、牡丹、芍藥、菊の花、黃金色こんじきすみれ銀覆輪ぎんぷくりんの、月草、露草。

 侍女一 もしもし、唯今のそれは、あの、殘らず、其のお娘御の身のしろとかにお遣はしの分なのでございますか。

 僧都  殘らず身の代と? ……はあ、如何さまな。(心付く) 不重寶ぶちようはう。これはこれは海松みるふさの袖に記して覺えのまゝ、うしほに乘つて、さつと讀流しました。はて、何から申した事やら、品目の多い處へ、數々のゆゑに。えゝえゝ、眞鯛大小八千枚。

 侍女一 鰤、鮪ともに二萬疋。鰹、眞那鰹各一萬本。

 侍女二 (僧都の前にあり) 大比目魚五千枚。鱚、魴鮄、鯒、あいなめ、目ばる、藻魚のたぐひ合せて七百籠。

 侍女三 (公子の背後にあり) 若布の其の幅六丈、長さ十五尋のもの百枚一卷き九千聨。

 侍女四 (同じく公子の背後に) 鮟鱇五十袋、虎河豚一頭、大の鮹一番ひとつがひ。まあ……(笑ふ。侍女皆笑ふ)

 僧都  (額の汗を拭く)それそれやう、然やう。

 公子  (微笑しつゝ)笑ふな、老人は眞面目で居る。

 侍女五 (最もわかし。ひとしく公子の背後に附添ふ。派手にうるはしき聲す)月の灘の桃色の枝珊瑚樹、つゐの一株、丈八尺、周圍まはり三抱みかゝへの分。一寸の玉三十三りふ……雪の眞珠、花の眞珠。

 侍女一 月の眞珠。

 僧都  少時しばらく。までじやまでじや、までにござる。……桃色の枝珊瑚樹、丈八尺、周圍まはり三抱の分までにござつた。(公子に)鶴の卵ほどのこう寶玉、孔雀の渦卷の綠寶玉、靑瑪瑙の盆、紫の瑠璃の臺。此の分は、天なる(仰いで禮拜す)月宮殿にみつぎのものにござりました。

 公子  わたしうらしく思つて聞いた。僧都、それからのちに言はれた、其の菫、露草などは、金銀寶玉のるゐは云ふまでもない、魚類ほどにも、人間が珍重しないものと聞く。が、同じく、あのかたつかはしたものか。

 僧都  綾、錦、牡丹、芍藥、もつれも散りもいたしませぬを、老人の申条まをしでう、はや、又海松みるのやうに亂れました。えゝえゝ、其の菫、露草は、若樣、此の度の御旅行につき、白雪はくせつ龍馬りうめにめされ、渚を掛けて浦づたひ、朝夕の、茜、紫、雲の上を山の峰へおしのびにてお出まの節、珍しくお手にりましたを、おん姉君、乙姫樣へ御進物ごしんもつの分でござりました。

 侍女一 姫樣は、閻浮檀金えんぶだごんの一輪挿に、眞珠の露でおけ遊ばし、お手許をお離しなさいませぬさうにございます。

 公子  度々たびたびは手にらない。わたしも大方、姉上にげた其の事であらうと思つた。

 僧都  御意ぎよい。娘の親へ遣はしましたは、眞鯛より數へまして、珊瑚一對……までに止まりました。

 侍女二 海では何ほどの事でもございませんが、受取りますをかの人には、鯛も比目魚ひらめも千と萬、少ない數ではございますまいに、僅な日のに、ようお手廻し、お遣はしに成りましてございます。

 僧都  れば其の事。一國、一島、津や浦のはてから果を一網にもせい、人間夥間なかまが、大海原おほうなばらから取入れますものと云ふは、貝に溜つた雫ほどに聊少いさゝかなものでござつての、お腰元衆など思うても見られまい、はりさきに蟲を附けて雜魚ざこ一筋を釣ると云ふ仙人業せんにんわざをしまするよ。此の度の娘の父は、までにもなけれども、小船一つで網を打つが、海月くらげほどにしよぼりと擴げて、泡にも足らぬ小魚こうをしやくふ。入れものが小さき故に、それ希望のぞみを滿しますに、手間の入ること、何ともまだるい。鰯を育てて鯨にするより齒痒い段の行止り。(公子に向ふ)若樣は御性急ぢや。早く彼がねがひ滿たいて、ちかひの美女を取れ、と御意ある。よつて、黑潮、赤潮の御手兵ごしゆへいとばかり動かしましたわ。赤潮のつるぎは、炎の稻妻、黑潮の黑い旗は、黑雲の峰をいて、沖から摚と浴びせたほどに、一浦の津波と成つて、田畑も家も山へ流いた。片隅の美女の家へ、門背戶かどせどかけて、疊天井、一齋いちどきに、屋根の上の丘の腹まで運込みました儀でござつたよ。

 侍女三 まあ、お勇ましい。

 公子  (少し俯向く)勇ましいではない。家畑を押流して、浦のもの等は迷惑をしはしないか。

 僧都  いや、否、黑潮と赤潮が、と爪彈きしましたばかり。人命を斷つほどではござりませなんだ。尤も迷惑をば、いたせ、娘の親が人間同士のなかでさへ、自分ばかりは、思ひけない海の幸を、黃金こがねの山ほどつかみましたに因つて、他の人々の難澁如きはいさゝかか氣にも留めませぬに、海のお世子よとりであらせられます若樣。人間界の迷惑など、お心に掛けさせますには毛頭當りませぬ儀でございます。

 公子  (頷く)そんならよし――僧都。

 僧都  はゝ。あらためて手をく。)

 公子  あれの親は、此方こちらから遣はした、娘の身の代とか云ふものに滿足をしたであらうか。

 僧都  御意、滿足いたしましたればこそ、當御殿、お求めに從ひ、美女を沈めました儀にござります。尤も、眞鯛、鰹、眞那鰹、其の金銀の魚類のみでは、滿足をしませなんだが、續いて、三抱へ一對の枝珊瑚を、夜の渚に差置きますると、山の端出づる月の光に、眞紫に輝きまするを夢のやうに抱きました時、あれの父親は白砂に領伏ひれふし、波のすそを吸ひました。あはれ龍神、一命を捧げ奉ると、御恩のほどを難有ありがたがりましたのでござります。

 公子  (微笑す)親仁おやぢの命などは御免だな。そんな魂を引取ると、海月くらげが殖えて、迷惑をするよ。

 侍女五 あんな事をおつしやいます。

一同笑ふ。

 公子  けれども僧都、そんな事で滿足した、人間の慾は淺いものだね。

 僧都  まだまだ、あれは深い方でござります。一人娘の身に代へて、海の寶を望みましたは、慾念のたくましい故でござりまして。……たかだかは人間同士、夥間なかまうちで、白いやはらか膩身あぶらみを、炎の燃立つ絹に包んで蒸しながら賣り渡すのが、峠の關所かと心得ます。

 公子  馬鹿だな。(珊瑚の椅子をすッと立つ)戀しい女よ。望めば生命でも遣らうものを。……はゝ、はゝ。

微笑す。

 侍女四 お思はれ遊ばした娘御は、天地あめつちかけて、お仕合せでおいで遊ばします。

 侍女一 早くお著き遊せばうございます。私どももお待遠に存じ上げます。

 公子  道中の樣子を見よう、旅の樣子を見よう。ドアの外に向つて呼ぶ)おいおい、居間の鏡を寄越せ。(闥開く。侍女六、七、二人、赤地の錦のおほひを掛けたる大なる姿見を捧げ出づ。)僧都も御覽。

 僧都  失禮ながら。(膝行して進む。侍女等、姿見を卓子の上に据ゑ、錦の蔽をひらく。侍女等、卓子の端の一方に集る。)

 公子  (姿見の面を指し、僧都を見返る)あれだ、彼だ。あの一點の光がそれだ。お前たちも見ないか。

舞臺轉ず。少時しばし暗黑、寂寞せきばくとして波濤の音聞ゆ。やがて一個ひとつ、花白く葉の靑き蓮華燈籠、漂々として波にたゞよへるが如くあらはる。續いて花の赤き同じ燈籠、中空なかぞらの如き高處かうしよに出づ。又出づ、やゝ低し。尚ほ見ゆ、少しく高し。其のすう五個(いつゝ)に成る時、累々るゐるゐたる波の舞臺をあらはす。美女。毛卷島田に結ふ。白の振袖、綾の帶、くれなゐの長襦袢、胸に水晶の數珠をかけ、襟に兩袖を占めて、波の上に、雪の如き龍馬りうめに乘せらる。凡そ手綱の丈を隔てて、下髮さげがみの女房。旅扮裝いでたち。素足、小袿こうちぎつま端折はしをりて、片手に市女笠いちめがさを携へ、片手に蓮華燈籠をぐ。第一點のともしびの影は此なり。黑潮こくてう騎士、美女の白龍馬はくりうめ犇々ひしひしと圍んで兩側二列を造る。およそ十人。皆崑崙奴くろんぼ形相ぎやうさう。手に手に、すくすくと槍を立つ。穗先白く晃々きらきらとして、氷柱つらゝさかしまに黑髮を縫ふ。或ものは燈籠を槍に結ぶ、灯の高きは此なり。或ものは手にし、或ものは腰にす。

 女房  貴女、お草臥くたびれでございませう。一息、お休息やすみなさいますか。

 美女  (夢見るやうに其の瞳をみひらく)あゝ、(嘆息す)もし、誰方どなたですか。……私の身體は足を空に、(馬の背にもすそ搔緊かいしむ)さかさまに落ちて落ちて、波に沈んで居るのでせうか。

 女房  いゝえ、お美しいおぐし一筋、風にも波にもおもつれはなさいません。何でお身體が倒などと、そんな事がございませう。

 美女  何時いつか、何時ですか、昨夜ゆうべか、今夜か、さきの世ですか。私が一人、かぢもない、舟に、むしろに乘せられて、波に流されました時、父親の約束で、海の中へられて行く、私へ供養のためだと云つて、船の左右へ、前後あとさきに、波のまにまに散つて浮く……蓮華燈籠が流れました。

 女房  水に目のお馴れなさいません、貴女には道しるべ、また土產にもと存じまして、此が、(手に翳す)其の灯籠でございます。

 美女  まあ、あかりも消えずに……

 女房  燃えた火の消えますのは、油の盡きる、風の吹く、をかばかりの事でございます。一度此の國へ受取りますと、こゝには風が吹きません。たゞ花の香の、ほんのりと通ふばかりでございます。紙の細工も珠に替つて、葉の靑いのは、翡翠の琅玕らうかん花片はなびらの紅白は、眞玉まだま、白珠、紅寶玉。燃ゆるも、またゝきながら消えない星でございます。御覽遊ばせ、貴女。お召ものが濡れましたか。お髮も亂れはしますまい。何で、お身體が倒でございませう。

 美女  最後に一目、故郷ふるさとの浦の近い峰に、月を見たと思ひました。其切それぎり、底へ引くやうに船が沈んで、私は波に落ちたのです。唯幻に、其の燈籠の樣な蒼い影を見て、胸を離れて遠くへ行く、自分の身の魂か、導く鬼火かと思ひましたが、ふと見ますと、前途ゆくても、あれあれ、遙の下と思ふ處に、月が一輪、おなじ光で見えますもの。

 女房  あゝ、(望む)あの光は。いえ。月影ではございません。

 美女  でも、貴方、雲が見えます、雪のやうな、空が見えます、瑠璃色の。そして、眞白な絹絲のやうな光が射します。

 女房  其の雲は波、空は水。一輪の月と見えますのは、此から貴女がおいで遊ばす、海の御殿でございます。あれへ、お迎へ申すのです。

 美女  そして、參つて、私の身體、う成るのでございませうねえ。

 女房  ほゝゝ、(笑ふ)何事も申しますまい。唯お嬉しい事なのです。おめでたう存じます。

 美女  あの、すて小舟に流されて、海のにへに取られて行く、あの、みまはす)これが、嬉しい事なのでせうか。めでたい事なのでせうかねえ。

 女房  (再び笑ふ)お國では如何いかゞでございませうか。私たちが故郷ふるさとでは、う此の上ない嬉しい、めでたい事なのでございますもの。

 美女  彼處あすこまで、道程みちのりは?

 女房  お國でたとへはむづかしい。……おゝ、五十三次とうけたまはります、東海道を十度とたびづゝ、三百度たび往還ゆきかへりを繰返して、三千度たびいたしますほどでございませう。

 美女  えゝ、そんなに。

 女房  めした龍馬りうめは風よりも早し、お道筋は黃金こがねの欄干、白銀しろがねの波のお廊下、たゞ花の香りの中を、やがてお著きなさいます。

 美女  潮風、磯の香、海松みる海藻かじめの、咽喉のどを刺す硫黃いわう臭氣にほひと思ひのほか、眞個ほんに、すゞしい、佳い薫、(柔に袖を動かす)……ですが、時々、悚然ぞつとする、なまぐさい香のしますのは?……

 女房  人間の魂が、貴女を慕ふのでございます。海月くらげが寄るのでございます。

 美女  人の魂が、海月くらげと云つて?

 女房  海に參ります醜い人間の魂は、皆、海月に成つて、ふはふはさまようて步行あるきますのでございます。

 黑潮騎士  (口々に)――うるさい。叱々しつしつ。――(と、ものなき龍馬の周圍をす。)

 美女  まあ、情ない、お恥しい。(袖を以ておもてを蔽ふ。)

 女房  いえ、貴女は、あの御殿の若樣の、新夫人にひおくさまでいらつしやいます、もはや人間ではありません。

 美女  えゝ。(袖を落す。――舞臺轉ず。眞暗に成る。)――

 女房  (聲のみして)急ぎませう。美しい方を見ると、黑鰐、赤鮫が襲ひます。騎馬が前後を守護しました。お憂慮きづかひはありませんが、いざ參ると、斬合ひ攻合ふ、修羅の巷をお目に懸けねば成りません。――騎馬の方々、急いで下さい。

燈籠一つ行き、續いて一つ行く。漂蕩へうたうする趣して、高く低く奥のかた深く行く。

舞臺燦然さんぜんとして明るし、前の琅玕らうかん殿あらはる。

 公子、椅子の位置を卓子に正しく直して掛けて、姿見のかたはらにあり。向つて右の上座かみざ。左の方に赤き枝珊瑚の椅子、人なくしてたゞ据ゑらる。其の椅子を斜にさがりて、沖の僧都、此の度は腰掛けてあり。黑き珊瑚、小形なる椅子を用ゐる。おなじ小形の椅子に、向つて正面に一人、畧(ほゞ)唐代のじゆの服裝したる、ひげ黑き一人あり。博士なり。

 侍女七人、花の如く其の間をよそほひ立つ。

 公子  博士、お呼び立てしました。

 博士  (敬禮す。)

 公子  此を御覽なさい。(姿見の面を示す。)千仭せんじんがけかさねた、漆のやうな波の間を、かすかに蒼いともしびに照らされて、白馬の背に手綱たづなしたは、此のたび迎へ取るおもひものなんです。陸に獅子、虎の狙ふと同一おなじに、入道鰐にふだうわに坊主鮫ばうずざめの一類が、美女と見れば、途中に襲撃おそひうつて、黑髮を吸ひ、白き乳を裂き、美しい血を吞まうとするから、守備のために、旅行さきで、手にあり合せただけ、少數の黑潮こくてう騎士を附添はせた、渠等かれら白刃しらはを揃へて居る。

 博士  至極のお計ひに心得まするが。

 公子  處が、敵に備ふる此處こゝの守備を出拂はしたから不用心ぢや、危險であらう、と僧都が言はれる。……其は恐れん、私が居れば仔細ない。けれども、又、僧都の言はれるには、白衣びやくえに緋のかさねした女子をなごを馬に乘せて、黑髮を槍尖やりさきで縫つたのは、彼の國で引廻しとかとなへた罪人の姿に似て居る、私の手許に迎入むかへいるゝものを、不祥ふしやうぢや、忌はしいと言ふのです。
事實不祥なれば、途中の保護は他に幾干いくらも手段があります。其は構はないが、私はいさゝかかも不祥と思はん、忌はしいと思はない。
此を見ないか。私の領分に入つた女の顏は、白い玉が月の光に包まれたと同一おなじに、愈々いよいよ淸い。眉は美しく、瞳は澄み、唇のべには冴えて、聊かもやつれない。憂へて居らん。淸らかなきものを著、あらたくしけづつて、花に露の點滴したゝよそほひして、馬にした姿は、かの國の花野のたけを、錦の山の懐にく……步行あるくより、車より、駕籠に乘つたより、一層鮮麗あざやかなものだと思ふ。其の上、選拔した慓悍へうかん黑潮こくてう騎士の精鋭等どもに、長槍ながやりを以て四邊あたりを拂はせて通るのです。得意思ふべしではないのですか。

 僧都  しきりつむりを傾く。)

 公子  引廻しと聞けば、恥を見せるのでせう、苦痛を與へるのであらう。槍で圍み、旗を立て、淡く淸く裝つた得意の人を馬に乘せていちを練つて、やがて刑場に送つて殺した處で、――殺されるものは平凡に疾病やまひで死するより愉快でせう。――其が何の刑罰に成るのですか。陸と海と、國が違ひ、人情が違つても、まさか、そんな刑罰はあるまいと想ふ。僧都は、うろ覺えながら確に記憶に殘ると言はれる。……貴下あなたをお呼立した次第です。一寸おしらべを願ひませうか。

 博士  仰聞おほせきけの記憶は私にもありますで。しかし、念のために驗べまするで。えゝ、陸上一切の刑法の記録でありませうか、それとも。

 公子  面倒です、あとはうでもい。たゞ女子をなごを馬に乘せ、槍を立てて引廻したと云ふ、そんな事があつたかと云ふ、それだけです。

 博士  正史でなく、小説、淨瑠璃の中を見ませうで。時の人情と風俗とは、史書よりもむしろ此の方が適當でありますので。(金光燦爛たる洋綴やうとぢの書を展く。)

 公子  卓子に腰を掛く)大相氣の利いた書物ですね。

 博士  此は、佛國ふつこくの大帝奈翁ナポレオンが、西暦千八百八年、西班牙スペイン遠征の途にのぼりました時、かねて世界有數の讀書家。必要によつて當時の圖書館長バルビールに命じてつくらせました、函入新裝の、一千卷、一架ひとたなの内容は、宗教四十卷、敍事詩四十卷、戲曲四十卷、其の他の詩篇六十卷。曆史六十卷、小説百卷、と申しまするデユオデシモ形と申す有名な版本の事を……お聞及びなさいまして、御姉君、乙姫樣が御工夫を遊ばしました。蓮の絲、一筋を、凡そ枚數千頁に薄く織擴げて、一萬枚が一折、一百二十折を合せて一册に綴ぢましたものでありまして、此の國の微妙なる光に展きますると、森羅萬象、人類をはじめ、動植物、鑛物、一切の元素が、一々ひとつひとつづゝ微細なる活字と成つて、然も、各々五色の輝きを放ち、名詞、代名詞、動詞、助動詞、主客、句讀くとう、いづれも個々別々、七彩に照つて、く開きました眞白なページの上へ、自然と、染め出さるゝのでありまして。

 公子  姉上が、其を。――さぞ、御祕藏のものでせう。

 博士  御祕藏ながら、若樣の御書物藏へも、整然ちやんと姫樣がお備へつけでありますので。

 公子  では、私の所有ですか。

 博士  若樣は此の册子と同じものを、瑪瑙めなうに靑貝の蒔繪の書棚、五百架たな、御所有でらせられまする次第であります。

 公子  姉があつて幸幅しあはせです。どれ、(取つてひらく)此は……唯白紙だね。

 博士  は、恐れながら、それぞれの豫備の知識がありませんでは、自然の其の色彩ある活宇は、ペエジの上には寫り兼ねるのでございます。

 公子  恥入るね。

 博士  いやいや、若樣は御勇武で居らせられます。入道鰐、黑鮫の襲ひまする節は、御訓練の黑潮こくてう赤潮せきてう騎士、御手おてつるぎでなうては御退けに成りまする次第には參らぬのでありまして。雖然けれども、姉姫樣の御心づくし、節々せつせつは御閲讀の儀をお勸め申まするので。

 僧都  もろともに、お勸め申上げますでござります。

 公子  (頷く)まあ、今の引廻しの事を見て下さい。

 博士  確に。(書を披く)手近に淨瑠璃にありました。あゝ、これにあります。……若樣、此は大日本浪華の町人、大經師以春いしゆんの年若き女房、名だたる美女のおさん。手代てだい茂右衛門と不義顯あらはれ、即ち引廻しはりつけに成りまする處を、記したのでありまして。

 公子  お讀み。

 博士  (朗讀す)――紅蓮ぐれんの井戶堀、焦熱の、地獄のかま塗りよしなやと、急がぬ道をいつのまに、越ゆる我身の死出の山、死出の田長たをさの田がりよし、野邊より先を見渡せば、過ぎし冬至の冬枯れの、の間木の間にちらちらと、ぬき身の槍の恐しや、――

 公子  (姿見を覗きつゝ、且つ聽きつゝ)あゝ、幾干いくらか似て居る。

 博士  ――また冷返る夕嵐、雪の松原、此の世から、かゝ苦患くげんにわう亡日まうにち、島田亂れてはらはらはら、顏にはいつもはんげしやう、縛られし手の冷たさは、我身一つのかんいり、涙ぞ指の爪とりよし、袖に氷を結びけり。……

侍女等、傾聽す。

 公子  唯、いゝ姿です、美しい形です。世間は其で其の女の罪を責めたと思ふのだらうか。

 博士  まづ、ト見えまするので。

 僧都  やうでございます。

 公子  馬につた女は、殺されても戀が叶ひ、思ひが届いて、さぞ本望であらうがね。

 僧都  ――袖に氷を結びけり。涙などと、嘆き悲しんだやうにござります。

 公子  其は、其の引廻しを見る、見物の心ではないのか。私には分らん。(頭をる。)博士――まだほかに例があるのですか。

 博士  (朗讀す)……世のあはれとぞなりにける。今日は神田のくづれ橋に恥をさらし、又は四谷、芝、淺草、日本橋に人こぞりて、見るに惜まぬはなし。是を思ふに、かりにも人はあしき事をせまじきものなり。天是を許し給はぬなり。……

 公子  (眉をひそむ。――侍女等ひとしく不審の面色(おもゝち)す。)

 博士  ……此女思込みし事なれば、身のやつるゝ事なくて、每日ありし昔の如く、黑髮をはせてうるはしき風情。……

 公子  (色解く。侍女等、眉をひらく。)

 博士  中畧をいたします。……聞く人ひとしほいたはしく、其姿を見おくりけるに、限ある命のうち、入相いりあひの鐘つくころしなかはりたる道芝のほとりにして、其身は憂き煙となりぬ。人皆いづれの道にも煙はのがれず、殊に不便は是にぞありける。――此で、鈴ヶ森で火刑ひあぶりに處せられまするまでを、確か江戶中棄札すてふだに槍を立てて引廻した筈と心得まするので。

 公子  分りました。其はお七と云ふ娘でせう。私は大すきな女なんです。御覽なさい。何處どこに當人が歎き悲みなぞしたのですか。人に惜しまれ可哀あはれがられて、女それ自身は大滿足で、自若として火に燒かれた。得意想ふべしではないのですか。何故其が刑罰なんだね。もし刑罰とすれば、めぐみしもとなさけの鞭だ。實際其の罪を罰しようとするには、其のまゝ無事に置いて、平凡に愚圖愚圖に生存いきながらへさせて、皺だらけの婆にして、其の娘を終らせるが可いと、私は思ふ。……分けて、現在、殊に其のお七の如きは、姉上が海へお引取りに成つた。刑場の鈴ヶ森は自然海に近かつた。姉上は御覽に成つた。鐵の鎖は手足を繫いだ、燃草は夕霜を置殘して其の肩を包んだ。煙は雪の振袖をふすべた。炎は緋鹿子ひがのこを燃え拔いた。緋の牡丹が崩れるより、虹が燃えるより美しかつた。戀の火の白熱は、凝つて白玉はくぎよくと成る、其のはだえを、氷つた雛芥子ひなげしの花に包んだ。姉の手の甘露が沖を曇らして注(そゝ)いだのだつた。其のまゝ海の底へお引取りに成つて、現に、姉上の宮殿に、今も十七で、くれなゐの珊瑚の中に、結綿ゆひわたの花を咲かせて居るのではないか。

男は死ななかつた。存命ながらへて坊主に成つて老い朽ちた。娘のために、姉上は其さへお引取りに成つた。けれども、其の魂は、途中でをす海月くらげに成つた。――時々未練に娘を覗いて、赤潮に追拂はれて、醜く、ふらふらと生白く漾(たゞよ)うてする。あはれなものだ。

娘は幸福しあはせではないのですか。火も水も、火は虹と成り、水は瀧と成つて、彼の生命を飾つたのです。拔身の槍の刑罰が馬の左右に、其のほまれを輝かすと同一おんなじに。――博士如何いかゞですか。僧都。

 博士  しかし、しかし若樣、私は愼重にお答へをいたしまする。身は此の職にありながら、事實、人間界の心もじやうも、まだいさゝかかも分らぬのでありまして。若樣、唯今の仰せは、其は、すべて海の中にのみ留まりまするが。

 公子  (穩和に頷く)姉上も、以前お分りに成らぬと言はれた。其の上、貴下あなたがお分りにならなければ此は誰にも分らないのです。私にも分らない。しかし事情も違ふ。彼を迎へる、道中の此の(又姿見を指す)馬上の姿は、別に不祥ではあるまいと思ふ。

 僧都  唯今、仰せ聞けられ承りまする内に、条理すぢみちわきまへず、僧都にも分らぬことのみではござりますが、唯、黑潮の拔身で圍みました段は、別に忌はしい事ではござりませんやうに、老人にも、其の合點參りましてござります。

 公子  よし、しかし僧都、こゝに蓮華燈籠の意味も分つた。が、一つ見馴れないものが見えるぞ。女が、黑髮と、あの雪の襟との間に――胸に珠を掛けた、あれは何かね。

 僧都  はあ。卓子に伸上る)はゝ、いかさま、いや、若樣。あれは水晶の數珠じゆずにございます。海に沈みまする覺悟につき、冥土めいどに參る心得のため、檀那寺だんなでらの和尚が授けましたのでござります。

 公子  冥土とは?……其こそ不埒ふらちだ。そして仇光あだびかりがする、あれは……水晶か。

 博士  水晶とは申す条、近頃は專ら硝子ビイドロを用ゐますので。

 公子  (一笑す)私の戀人ともあらうものが、無ければい。が、硝子ビイドロとは何事ですか。金剛石、また眞珠の揃うたのが可い。……博士、贈つて然るべき頸飾えりかざりをおしらべ下さい。

 博士  かしこまりました。

 公子  そして指環の珠の色も怪しい、お前たちう見たか。

 侍女一 近頃は、かんてらの灯の露店ほしみせに、紅寶玉ルビイ綠寶玉エメラルドと申して、貝をひさぐと承ります。

 公子  お前たちの化粧の泡が、波に流れて渚に散つた、あの貝が寶石か。

 侍女二 錦襴きんらんの服を著けて、靑い頭巾を被りました、立派な玉商人たまあきんどの賣りますものも、にせが多いさうにございます。

 公子  博士、次手ついでに指環を贈らう。僧都、すぐに出向でむかうて、遠路であるが、途中、早速、硝子ビイドロと其のまがだまを取棄てさして下さい。お老寄としよりに、御苦勞ながら。

 僧都  (苦笑す)若樣には、新夫人にひおくさまの、まだ、海にお馴れなさらず、御到著の遲いばかり氣になされて、老人が、こゝに形を消せば、瞬く間もなう、お姿見の中の御馬の前に映りまする神通じんづうを、お忘れなされて、老寄に苦勞などと、心外な御意をかうむりまするわ。

 公子  はゝは、(無邪氣に笑ふ)失禮をしました。

博士、僧都、一揖いちいふして廻廊より退場す。侍女等慇懃に見送る。

 公子  少し窮屈であつたげな。

侍女等親しげに皆其の前後に齋眉かしづき寄る。

 公子  性急な私だ。――女を待つ間の心遣こゝろやりにしたい。誰か、あの國の歌を知つてらんか。

 侍女三 存じて居ります。浪花津なにはづに咲くや此花このはな冬籠ふゆごもり、今を春へと咲くや此花。

 侍女四 若樣、私も存じて居ります。淺香山を。

 公子  いや、そんなのではない。(博士がおきたる書をひらきつゝ)女の國の東海道、道中の唄だ。何とか云ふのだつた。此の書はいくらか覺えがないと、文字が見えないのださうだ。(呟く)姉上は貴重な、しかし、少しあてつこすりの書をおこしらへに成つたよ。あゝ、何とか云つた、東海道の。

 侍女五 五十三次のでございませう、私が少し存じて居ります。

 公子  歌うて見ないか。

 侍女五 はい。(朗かに優しくあはれに唄ふ。)
     都路は五十路いそぢあまりの三つの宿、……

 公子  おゝ、其だ、字書じしよのやうに、江戶紫で、都路と標目みだしが出た。(展く)あとを。

 侍女五 ……時得て咲くや江戶の花、浪靜なる品川や、やがて越來る川崎の、軒端ならぶる神奈川は、早や程ケ谷に程もなく、暮れて戶塚に宿るらむ。紫匂ふ藤澤の、野面のおもに續く平塚も、もとのあはれは大磯か。かはづ鳴くなる小田原は。……きまり惡げに)……もうあとは忘れました。

 公子  よし、こゝに綠の活字が、白い雲のペエジに出た。――箱根を越えて伊豆の海、三島の里の神垣や――さあ、忘れた所は教へて遣らう。此の歌で、五十三次の宿しゆくを覺えて、お前たち、あの道中雙六すごろくと云ふものを遊んで見ないか。あがりは京都だ。姉の御殿に近い。誰か一人あがつて、雙六の済む時分、丁度、此の女は(姿見を見つゝ)著くであらう。一番上りのものには、瑪瑙めなうさやに、紅寶玉の實をかざつた、あの造りものの吉祥果きつしやうくわを遣る。繪は直ぐに間にあはぬ。此のへやを五十三に割つて雙六の目に合せて、一人づゝ身體を進めるが可からう。……賽が要る、持つて來い。(侍女六七、うつむいてともに微笑す)――何うした。

 侍女六  姿見をお取寄せ遊ばしました時。

 侍女七  二人して盤の雙六をして居りましたので、賽は持つて居りますのでございます。

 公子  おもしろい。向うの廻廊の端へ集まれ。そして順に成つて始めるが可い。

 侍女七  ゆかへ振りませうでございますか。

 公子  心あつて招かないのに來た、賽にも魂がある、寄越せ。(受取る)卓子の上へ私が投げよう。お前たち一から七まで、目に從うて順に動くが可い。さあ、集れ。(侍女七人、いそいそと、續いて廻廊のはづれに集り、貴女は一。私は二。う口々に樂しげに取定め、勇みて賽を待つ。)可いか、(片手に書を持ち、片手に賽を投ぐ)――一は三、かな川へ。(侍女一人進む)二は一、品川まで。(侍女一人また進む)三は五だ、戶塚へ行け。くして順々に繰返し次第に進む。第五の侍女、年最も少きが一人衆を離れて賽の目に乘り、正面突當りなる窓際に進み、他と、あはひ隔る。公子。これよりさき、姿見を見詰めて、賽の目と宿の數を算へ淀む。……此の時、うかとしたるていに書を落す。)まだ、誰も上らないか。

 侍女一 やつと一人天龍川まで參りました。

 公子  あゝ、まだるつこい。賽を二つ一所に振らうか。(手にしながら姿見に見入る。侍女等、等く其方そなたを凝視す。)

 侍女五 きやつ。(叫ぶ。ひまなし。其の姿、窓の外へもすそを引いてさつと消ゆ)あゝれえ。

侍女等、口々に、あれ、あれ、鮫が、鮫が、入道鮫が、と立亂れ騒ぎ狂ふ。

 公子  入道鮫が、何、(窓にと寄る。)

 侍女一 あゝ、黑鮫が三百ばかり。

 侍女二 取卷いて、群りかゝつて。

 侍女三 あれ、入道が口にくはへた。

 公子  外道げだう、外道、其の女を返せ、外道。(叱咤しつゝ、窓より出でんとす。)

侍女等すがり留む。

 侍女四 輕々しい、若樣。

 公子  放せ。あれ見い。外道の口の間から、女の髮がこぼれて落ちる。やあ、胸へ、乳へ、牙が喰入る。えゝ、油斷した。……骨も筋もれような。あゝ、手を悶える、もすそあふる。

 侍女六  いゝえ、若樣、私たち御殿の女は、からだは綿よりも柔かです。

 侍女七  蓮の絲をつかねましたやうですから、鰐の牙が、背筋と鳩尾みづおちへ嚙合ひましても、薄紙一重透きます内は、血にも肉にも障りません。

 侍女三 入道も、一類も、色を漁るのでございます。生命いのち頃刻しばらく助りませう。

 侍女四 其のうちに、其の中に。まあ、お靜まり遊ばして。

 公子  いや、俺の力は弱いもののためだ。生命いのちに掛けて取返す。――よろひを寄越せ。

侍女二人と出で、引返して、二人して、一領の鎧を捧げ、背後うしろよりさつと肩に投掛く。

公子、上へ引いて、うなじよりつらなりたる兜を頂く。つのある毒龍、すさまじきかしらと成る。其の頭を頂く時に、侍女等、鎧の裾をさばく。外套の如く背より垂れて、紫の鱗、金色こんじきの斑點聨り輝く。

公子、又袖を取つて肩よりして自らのどに結ぶ、此の結びめ、左右一雙の毒龍の爪なり。迅速に一縮いつしゆくす。立直るや否や、劍を拔いて、頭上にかざし、ハタと窓外をにらむ。

侍女六人、齋しく其の左右に折敷き、手に手に匕首あひくちを拔聨れて、晃々きらきらと敵に構ふ。

 公子  外道、退くな。じつと視て、つるぎの刃を下に引く)とりこを離した。受取れ。

 侍女一 鎧をめしたばつかりで、御威德ごゐとくを恐れて引きました。

 侍女二 長う太く、數百の鮫のかさなつて、蜈蚣むかでのやうに見えたのか、あゝ、ちりぢりに、ちりぢりに。

 侍女三 めだかのやうに遁げて行きます。

 公子  おゝ、丁度黑潮等が歸つて來た、歸つた。

 侍女四 眞個ほんに、おつかひ歸りの姉さんが、とりこを抱取つて下すつた。

 公子  介抱してやれ。お前たちは出迎へ。

侍女三人づゝ、一方はとびらのうちへ。一方は廻廊に退場。

公子、眞中に、すつくと立ち、靜かに劍を納めて、右手めてなる白珊瑚の椅子にる。騎士五人廻廊まで登場。

 騎士一同  (槍を伏せて、うづくまり、同音に呼ぶ)若樣。

 公子  おゝ、歸つたか。

 騎士一  以ての外な、今ほどは。

 公子  何でもない、わたしは無事だ、皆御苦勞だつたな。

 騎士一同  はッ。

 公子  途中まで出向つたらう、僧都はうしたか。

 騎士一  あとの我ら夥間なかまひきゐて、入道鮫を追掛けて參りました。

 公子  よい相手だ、戰鬪は觀ものであらう。――皆は休むが可い。

 騎士  槍は鞘に納めますまい、此のまゝ御門を堅めまするわ。

 公子  までにせずとも大事ない、休め。

騎士等、禮拜して退場。侍女一、登場。

 侍女一 御安心遊ばしまし、きずを受けましたほどでもございません。唯、ひどく驚きまして。

 公子  可愛相に、よく介抱して遣れ。

 侍女一 二人が附添つて居ります、(廻廊を見込む)あゝ、う御廊下まで。(公子のさしづにより、姿見に錦のおほひを掛け、とびらる。)

美女。先達の女房に、片手、手を曳かれて登場。姿をしづかに、深く差俯向さしうつむき、面影やゝやつれたれども、まで惡怯わるびれざる態度、おもむろに廻廊を進みて、ゆかを上段に昇る。昇る時も、裾捌き靜なり。

侍女三人、灯籠二個ふたつづゝ二人、一つを一人、五個いつゝを提げて附添ひ出で、一人一人、廻廊のひさしに架け、其のまゝ引返す。燈籠を侍女等の差置き果つるまでに、女房は、美女を其の上段、紅き枝珊瑚の椅子まで導く順にてありたし。女房、謹んで公子に禮して、美女に椅子を教ふ。

 女房  お掛け遊ばしまし。

美女、据置かるゝさまに椅子に掛く。女房は其のもすそ跪居ついゐる。

美女、うつむきたるまゝ少時しばし、皆無言。やがて顏を上げて、正しく公子と見向ふ。瞳を据ゑて瞬きせず。――

 公子  よく見えた。(無造作に、座を立つて、卓子周圍まはりに近づき、手を取らんとかひなを伸ばす。美女、崩るゝが如くに椅子をはづれ、ゆかに伏す。)

 女房  何うなさいました、貴女、何うなさいました。

 美女  (聲細く、れども判然)はい、……覺悟しては來ましたけれど、餘りと言へば、可恐おそろしうございますもの。

 女房  (心付く)おゝ、若樣。其の鎧をお解き遊ばせ。お驚きなさいますのも御尤もでございます。

 公子  解いても可い、(結び目に手を掛け、思慮す)が、解かんでもからう。……最初に見た目は何處までも附絡つきまとふ。(美女に)貴女あなた、おい、貴女、これを恐れては不可いかん、わたしは此あるがために、強い。此あるがために力があり威がある。今も旣に此に因つて、めしつかふ女の、入道鮫に嚙まれたのを助けたのです。

 美女  (やゝおもてを上ぐ)お召使が鮫の口に、矢張り、そんな可恐おそろしい處なんでございますか。

 公子  はゝはゝ、(笑ふ)貴女、敵のない國が、世界の何處にあるんですか。あだは至る處に滿ちて居る――唯一人いちにんの娘を捧ぐ、……海のさちを賜はれ――貴女の親は、旣に貴女のあだなのではないか。唯其敵に勝てば可いのだ。私は、此の強さ、力、威あるがために勝つ。ねやに唯二人ある時でも私は此を脱ぐまいと思ふ。私の心は貴女を愛して、私の鎧は、敵から、あだから、世界から貴女を守護する。弱いものの爲に強いんです。毒龍の鱗はまとひ、爪はいだき、角は枕しても聊(いさゝか)も貴女の身は傷けない。ともに此の鎧に包まるゝ内は、貴女は海の女王なんだ。放縱はうじうに大膽に、不羈ふき專横せんわうに、心のまゝにして差支へない。鱗に、爪に、角に、一絲掛けない白身はくしんいだかれ包まれて、渡津海わたつみの廣さを散步しても、敢て世に憚る事はない。誰の目にも觸れない。人はゆびさしをせん。時として見るものは、沖の其の影を、眞珠の光と見る。ゆびさすものは、喜見城きけんじやう幻景まぼろしに迷ふのです。

女の身として、優しいもの、こびあるもの、從ふものに慕はれて、それが何の本懐です。私は鱗を以て、角を以て、爪を以て愛するんだ。……鎧は脱ぐまい、と思ふ。從容しようようとして椅子に戾る。)

 美女  (起直り、會釋す)……父へ、海の幸をお授け下さいました、津波のお強さ、船をくつがへして、此處へ、遠い海の中をお聨れなすつた、お力。道すがらは又お使者つかひで、金剛石の此の襟飾、寶玉の此の指環、(嬉しげに見ゆ)貴方の御威德はよく分りましたのでございます。

 公子  津波しき、家來どもが些細ささいな事を。さあ、其處へお掛け。

女房、介抱して、美女、椅子に直る。

 公子  頸飾くびかざりなんぞ、珠なんぞ。貴女の腰掛けて居る、其は珊瑚だ。

 美女  まあ、父に下さいました枝よりは、幾倍とも。

 公子  あれは草です。較ぶれば此處のは大樹だ。椅子の丈はくがの山よりも高い。うして居る貴女の姿は、夕日影の峰に、雪の消殘つたやうであらう。少しく離れた私の兜の龍頭たつがしらは、城の天守の棟に飾つた黃金のしやちほどに見えようと思ふ。

 美女  あの、人の目に、それが、貴方?

 公子  譬喩たとへです、人間の目には何にも見えん。

 美女  あゝ、見えはいたしますまい。お恥かしい、人間の小さな心には、此處に、見ますれば私がすそを曳きますゆかも、琅玕らうかんの一枚石。うした御殿のある事は、夢にも知らないのでございますもの、情なう存じます。

 公子  いや、そんなに謙遜をするには當らん。くがには名山、佳水かすゐがある。峻嶽、大河がある。

 美女  でも、こんな御殿はないのです。

 公子  あるのを知らないのです。海底の琅玕らうかんの宮殿に、寶藏の珠玉金銀が、虹に透いて見えるのに、更科さらしなの秋の月、錦を染めた木曽の山々は劣りはしない。……峰には、其の錦葉もみぢを織る龍田姫がおいでなんだ。人間は知らんのか、知つても知らないふりをするのだらう。知らない振をして見ないんだらう。――くがは尊い、景色は得難い。今も、道中雙六をして遊ぶのに、五十三次の一枚繪さへ手許にはなかつたのだ。繪も貴い。

 美女  あんな事をおつしやつて、繪には活きたものは住んで居りませんではありませんか。

 公子  いや、住居すまひをして居る。色彩は皆活きて動く。けれども、人は知らないのだ。人は見ないのだ。見ても見ない振をして居るんだから、決して人間の凡てを貴いとは言はない、美いとは言はない。唯くがは貴い。けれども、我が海は、此の水は、一畝ひとうねりの波を起して、其の陸を浸す事が出來るんだ。たゞ貴く、うつくしいものは亡びない。……中にも貴女は美しい。だから、陸の一浦を亡ぼして、こゝへ迎へ取つたのです。亡ぼす力のあるものが、亡びないものを迎へ入れて、且つ愛し且つ守護するのです。貴女は、喜ばねば不可いけない、嬉しがらなければならない、悲しんでは成りません。

 女房  貴女、おつしやる通りでございます。途中でも私が、お喜ばしい、おめでたい儀と申しました。決してお歎きなさいます事はありません。

 美女  いゝえ、歎きはいたしません。悲しみはいたしません。唯歎きますもの、悲しみますものに、私の、此の容子ようすを見せて遣りたいと思ふのです。

 女房  人間の目には見えません。

 美女  故郷ふるさとの人たちには。

 公子  見えるものか。

 美女  (やゝ意氣ぐむ)あの、
私の親には。

 公子  貴女は見えると思ふのか。

 美女  うして、活きて居りますもの。

 公子  きつとしたる音調)無論、活きて居る。しかし、船から沈む時、此處へ來るにう云ふ決心をたのですか。

 美女  それは死ぬ事と思ひました。故郷ふるさとの人も皆然う思つて、分けて親は歎き悲しみました。

 公子  貴女の親は悲しむ事は少しもなからう。はじめから其のつもりで、約束の財を得た。然も滿足だと云つた。其の代りに娘を波に沈めるのに、少しも歎くことはないではないか。

 美女  けれども、父娘おやこの情愛でございます。

 公子  勝手な情愛だね。人間の、そんな情愛は私には分らん。かぶりる)が、まあ、情愛として置く、それで。

 美女  父は涙にくれました。小船が波に放たれます時、渚の砂に、父の倒伏たふれふしました處は、あの、ちやうど夕月に紫の枝珊瑚を抱きました處なのです。そして、あとなげきは、前の喜びにくらべまして、幾十層倍だつたでございませう。

 公子  ぢや、其の枝珊瑚を波に返して、約束を戾せばかつた。

 美女  いゝえ、ですが、う、海の幸も、枝珊瑚も、金銀に代り、家藏いへくらに代つて居たのでございます。

 公子  よし、其の金銀を散らし、施し、棄て、藏をこぼち、家を燒いて、もとの破蓑やれみの一領、網一具の漁民と成つて、娘の命乞いのちごひをすれば可かつた。

 美女  それでも、約束の女を寄越せと、海坊主のやうな黑い人が、夜ごと夜ごと天井を覗き、屛風を見越し、壁襖に立つて、責めたり、催促をなさいます。今更、家藏に替へましたッて、と然う思つたのでございます。

 公子  貴女の父は、もとの貧民になりさがるから娘を許して下さい、と、其の海坊主に掛合つて見たのですか。見はしなからう。そして、貴女を船に送出す時、磯に倒れて悲しまうが、新しい白壁、つやあるいらかを、山際の月に照らさして、夥多あまた奴婢ぬひに取卷かせて、近頃呼入れた、若い妾に介抱されて居たではないのか。何故なぜ、其が情愛なんです。

 美女  はい。……(恥ぢて首低うなだる。)

 公子  貴女をせむるのではない。よし其が人間の情愛なれば情愛で可い、私とは何の係はりもないから。ちつとも構はん。が、私の愛する、この宮殿にある貴女が、そんな故郷ふるさとを思うて、歎いては不可いかん。悲しんでは不可んと云ふのです。

 美女  貴方。(向直る。聲に力を帶ぶ)私は始めから、決して歎いては居ないのです。父は悲しみました。浦人は可哀あはれがりました。ですが私は――約束に應じて寶を與へ、其の約束を責めて女を取る、――それが夢なれば、船に乘つても沈みはしまい。もし事實として、浪に引入るゝものがあれば、それしやうあるもの、形あるもの、云ふまでもありません、心あり魂あり、聲あるものに違ひない。其の上、威があり力があり、さかえと光とあるものに違ひないと思ひました。ですから、人は然うして歎いても、私は小船で流されますのを、まで、あわて騒ぎも、泣悲しみも、落著過ぎもしなかつたんです。もしか、船が沈まなければ無事なんです。生命はあるんですもの。くつがへす手があれば、それは活きて居る手なんです。其の手にすがつて、海の中に活きられると思つたのです。

 公子  (聞きつゝ莞爾くわんじとす)やあ、(女房に)……此の女はえらいぞ! はじめから歎いて居らん、慰めすかす要はない。私はしをらしい、あはれな花を手活ていけにしてながめようと思つた。違ふ! 此は樂く歌ふ鳥だ、面白い。それも愉快だ。おい、酒を寄越せ。

手を擧ぐ。忽ちドア開けて、三人の侍女、二罎の酒と、白金はくきんの皿に一對の玉盞たまのさかづきを捧げて出づ。女房さかづきを取つて、公子と美女の前に置く。侍女退場す。女房酒を兩方にぐ。

 女房  めし上りまし。

 美女  (辭宜す)私は、ちつとも。

 公子  (品よく盞を含みながら)貴女、少しもからうない。

 女房  貴女の薄紅うすべになは桃の露、あちらは菊花の雫です。お國では御存じありませんか。海には最上の飲料のみしろです。お氣がすゞしくなります、召あがれ。

 美女  あの、桃の露、(見物席の方へ、半ば片袖を蔽うて、うつむき飲む)は。(と小さき呼吸す)何と云ふ涼しい、さわやいだ――蘇生よみがへつたやうな氣がします。

 公子  蘇生つたのではないでせう。更に新しい生命いのちを得たんだ。

 美女  嬉しい、嬉しい、嬉しい、貴方。私がうして活きて居ますのを、見せて遣りたう存じます。

 公子  別に見せる要はありますまい。

 美女  でも、人は私が死んだと思つて居ります。

 公子  勝手に思はせて置いて可いではないか。

 美女  ですけれども、ですけれども。

 公子  其の情愛、とかで、貴女の親に見せたいのか。

 美女  えゝ、父をはじめ、浦のもの、それからみんなに知らせなければ殘念です。

 公子  卓子に胸を凭出よせいだ歸りたいか、故郷こきやうへ。

 美女  いゝえ、此の宮殿、此の寶玉、此の指環、此の酒、此の榮華、私は故郷こきやうへなぞ歸りたくはないのです。

 公子  では、何が知らせたいのです。

 美女  だつて、貴方、人に知られないで活きて居るのは、活きて居るのぢやないんですもの。

 公子  (色はじめて鬱す)むゝ。

 美女  (微醉の瞼花やかに)誰も知らない命は、生命いのちではありません。此の寶玉も、此の指環も、人が見ないでは、ちつとも價値ねうちがないのです。

 公子  それは不可いかん。(卓子を輕く打つて立つ)貴女は榮耀ええうが見せびらかしたいんだな。そりや不可ん。人は自己、自分で滿足をせねばならん。人に價値ねうちをつけさせて、其に從ふべきものぢやない。(近寄る)人は自分で活きれば可い、生命いのちを保てば可い。しかも愛するものとともに活きれば、少しも不足はなからうと思ふ。寶玉とても其の通り、手箱に此を藏すれば、寶玉其のものだけの價値を保つ。人に與ふる時、十倍の光を放つ。唯、人に見せびらかす時、其の艶は黑く成り、其の質は醜く成る。

 美女  えゝ、ですから……來るお庭にも敷詰めてありました、あの寶玉一つも、此の上お許し下さいますなら、きつと慈善にほどこして參ります。

 公子  こゝに、用意の寶藏はうざうがある。皆、貴女のものです。施すは可い。が、人知れずでなければ出來ない、貴女の名をあらはし、姿を見せては施すことはならないんです。

 美女  それでは何にもなりません。何のかひもありません。

 公子  (色やゝ嶮し)隨分、勝手を云ふ。が、貴女の美しさに免じて許す。歌ふ鳥が囀るんだ、雲雀は星をしのぐ。星は蹴落さない。聲が可愛らしいからなんです。(女房に)おい、注げ。

女房酌す。

 美女  おくれたる内輪な態度)もうもう、決して、虚飾みえ榮耀ええうを見せようと思ひません。あの、唯活きて居る事だけを知らせたう存じます。

 公子  (冷かに)止したが可からう。

 美女  いゝえ、唯今も申します通り、故郷くにへ歸つて、其處に留まります氣は露ほどもないのです。一寸ちよつとお許しを受けまして生命いのちのあります事だけを。

公子、無言にしてかぶりる。美女、縋るが如くす。

 美女  あの、お許しは下さいませんか。ちつとの外出そとでもなりませんか。

 公子  さわやかに)獄屋ごくやではない、大自由、大自在な領分だ。歎くもの悲しむものは無論の事、僅少きんせううれひあり、不平あるものさへ一日も一個ひとりたりとも國に置かない。が、貴女には旣に心を許して、祕藏の酒を飲ませた。海のはて、陸のをはり、思つて行かれない處はない。故郷ふるさと如きは唯一飛、瞬きをするに行かれる。あはれむ如く染々しみじみと顏を覗る)が、氣の毒です。
 貴女に、其のおごりと、虚飾みえの心さへなかつたら、一生聞かなくとも済む、また聞かせたくない事だつた。貴女、これ。

(美女顏を上ぐ。其の肩に手を掛く)こゝに來た、貴女はう人間ではない。

 美女  えゝ。(驚く。)

 公子  蛇身に成つた、美しい蛇に成つたんだ。

美女、瞳をみはる。

 公子  其の貴女の身に輝く、寶玉も、指環も、紅、紫の鱗の光と、人間の目に輝くのみです。

 美女  あれ。(椅子を落つ。侍女の膝にて、袖を見、背を見、手を見つゝ、わなゝき震ふ。雪の指尖ゆびさき、思はず鬢を取つてと立ちつゝ)いゝえ、否、否。何處もじやには成りません。、一枚も鱗はない。

 公子  一枚も鱗はない、無論何處も蛇には成らない。貴女は美しい女です。けれども、人間のまなこだ。人の見る目だ。故郷に姿をあらはす時、貴女の父、貴女の友、貴女の村、浦、貴女の全國の、貴女を見る目は、誰も殘らず大蛇と見る。ものを云ふ聲はたゞ、炎の舌がひらめく。く息は煙を渦卷く。悲歎の涙は、硫黃を流して草を爛(たゞ)らす。長い袖は、なまぐさい風を起して樹を枯らす。悶ゆる膚は鱗を鳴してのたうちうねる。不圖ふと、肉身のものの目に、其の丈より長い黑髮の、三筋、五筋いつすぢ、筋を透して、大蛇の背に黑く引くのを見る、それがなごりと思ふが可い。

 美女  (髮みだるゝまでかぶりをる)噓です、噓です。人をのろつて、人をのろつて、貴方こそ、其の毒蛇です。親のために沈んだ身が蛇體に成らう筈がない。つて下さい。故郷くにへ歸して下さい。親の、人の、友だちの目を借りて、尾のない鱗のないわたしの身がためしたい。遣つて下さい。故郷へ歸して下さい。

 公子  大自在の國だ。勝手に行くが可い、そしてためすが可からう。

 美女  何處に、故郷ふるさとの浦は……何處に。

 女房  あれ彼處あすこに。(廻廊の燈籠をゆびさす。)

 美女  おゝ、(身震す)船の沈んだ浦が見える。飜然ひらりと飛ぶ。……亂るゝくれなゐ、炎の如く、トンとゆかを下りるや、さつと廻廊を突切る。途端に、五個の燈籠齋ひとしく消ゆ。廻廊暗し。美女、其の暗中に消ゆ。舞臺の上段のみ、やゝ明く殘る。)

 公子  おい、其の姿見のおほひを取れ。くがを見よう。

 女房  困つた御婦人です。しかしお可哀相なものでございます。(立つ。舞臺暗く成る。――やがて明く成る時、花やかに侍女皆あり。)

公子。椅子にる。――其足許に、美女倒れ伏す――く旣に歸りきたれる趣。髮すべて亂れ、たもと裂け帶崩る。

 公子  玉盞ぎょくさんを含みつゝ悠然として)故郷はうでした。……何うした、私が云つた通だらう。貴女の父のわかめかけは、貴女の其の恐しい蛇の姿を見て氣絶した。貴女の父は、下男とともに、鐵砲を以つて其の蛇を狙つたではありませんか。渠等かれらは第一、私を見てさへ蛇體だと思ふ。人間の目は然う云ふものだ。そんな處に用はあるまい。泣いて居ては不可いかん。

美女悲泣す。

 公子  不可いかん、おい、泣くのは不可ん。(眉を顰む。)

 女房  (背をさする)若樣は、歎悲かなしむのがおきらひです。御性急でらつしやいますから、御機嫌に障ると惡い。こゝは、樂しむ處、歌ふ處、舞ふ處、喜び、遊ぶ處ですよ。

 美女  えゝ、貴女方は樂しいでせう、嬉しいでせう、お舞ひなさい、お唄ひなさい、わたし、私は泣死なきじにに死ぬんです。

 公子  死ぬまで泣かれて堪るものか。あんな故郷くにに何の未練がある。さあ、機嫌を直せ。こゝには悲哀のあることを許さんぞ。

 美女  お許しなくば、何うなりと。えゝ、故郷ふるさとの事も、私の身體からだも、みんな、貴方の魔法です。

 公子  何處まで疑ふ。忿怒ふんぬの形相)お前を蛇體と思ふのは、人間の目だと云ふに。俺の……魔……法。許さんぞ。女、悲しむものは殺す。

 美女  えゝ、えゝ、お殺しなさいまし。活きられる身體ではないのです。

 公子  (憤然として立つ)黑潮等は居らんか。此の女を處置しろ。

言下に、床板を跳ね、其穴より黑潮こくてう騎士、大錨をかついであらはる。騎士二三、續いて飛出づ。美女を引立て、一の騎士がさかしまに押立てたる錨にいましむ。錨の刃越に、黑髮の亂るゝを搔摑かいつかんで、押仰向おしあをむかす。長槍ながやりの刃、鋭く其のあぎとに臨む。

 女房  あゝ、若樣。

 公子  止めるのか。

 女房  おゆかが血に汚れはいたしませんか。

 公子  美しい女だ。花を挘るも同じ事よ、花片はなびらしべと、ばらばらに分れるばかりだ。あとは手箱に藏つて置かう。――殺せ。(騎士、槍を取直す。)

 美女  貴方、こんな惡魚の牙は可厭いやです。御卑怯おひけふな。見て居ないで、御自分でお殺しなさいまし。(公子、頷き、無言にてつかつかと寄り、猶豫ためらはずつるぎを拔き、颯と目にかざし、と引いて斜に構ふ。おもてを見合す。)
 あゝ、貴方。私を斬る、私を殺す、其の、顏のお綺麗さ、氣高さ、美しさ、目のすゞしさ、眉の勇ましさ。はじめて見ました、位の高さ、品の可さ。う、故郷も何も忘れました。早く殺して。あゝ、嬉しい。莞爾につこりする。)

 公子  解け。

騎士等、美女を助けて、片隅に退く。公子、つるぎひつさげたるまゝ、

 公子  此方こちらへおいで。(美女、手を曳かる。ともにゆかに上る。公子劍を輕く取る。)終生をちかはう。手を出せ。(手首を取つて刃をかひなに引く、一線の紅血、玉盞ぎよくさんに滴(したゝ)る。公子返す切尖きつさきに自から腕を引く、紫の血、玉盞に滴る。)飲め、吞まう。

さかづきをかはして、仰いで飲む。廻廊の燈籠一齋にともり輝く。

 公子  あれ見い、血を取かはして、飲んだと思ふと、お前の故郷くにの、浦の磯に、岩に、紫とあかの花が咲いた。それとも、星か。(一同打見る。)あれは何だ。

 美女  見覺えました花ですが、私はもう忘れました。

 公子  (書を見つゝ)博士、博士。

 博士  (登場)……お召。

 公子  (指す)あの花は何ですか。(書を渡さむとす。)

 博士  存じて居ります。竜膽りんだう撫子とこなつでございます。新夫人にひおくさまの、お心が通ひまして、折からの霜に、一際ひときは色が冴えました。若樣と奥樣の血のおもかげでございます。

 公子  人間にそれが分るか。

 博士  心ないものには知れますまい。詩人、畫家が、しかし認めますでございませう。

 公子  お前、私の惡意ある呪誼のろひでないのが知れたらう。

 美女  (うなだる)お見棄なう、幾久しく。

 一同  ――萬歳を申上げます。――

 公子  皆、休息をなさい。(一同退場。)

公子、美女と手をたづさへて一步す。美しき花降る。二步す、フト立停まる。三步を動かす時、音樂聞ゆ。

 美女  一步ひとあしに花が降り、二步ふたあしには微妙のかをり、いま三あしめに、ひとりでに、樂しい音樂の聞えます。此處は極樂でございますか。

 公子  はゝゝ、そんな處と一所にされて堪るものか。おい、女の行く極樂に男は居らんぞ。(鎧の結目を解きかけて、音樂につれておもむろに、やゝ、なゝめに立ちつゝ、其の龍の爪を美女の背にかく。雪の振袖、紫の鱗の端にほのかに見ゆ)男の行く極樂に女は居ない。

――幕――

Izumi Kyoka
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on Oct24 2003
招待席 | 戲曲・シナリオ
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