招待席

若松 賤子

わかまつ しづこ 作家 1864.3.1 - 1896.2.10 現福島県会津若松に生まれる。フェリス和英女学校高等科唯一人の第一回卒業生。明治十九年(1886)以降若松賤子の筆名で有名な「小公子」はじめ海外作品を典雅な筆で翻訳紹介し読書界に貢献した。明治女学院校長巌本善治と結婚したが数え三十三歳で惜しくも病没。 掲載作は、「少年世界」明治二十九年(1896)一月二月号に初出。

おもひで

 (上)

 

正月用の衣類取出(とりいだ)さんと、たまたま開きたる納戸(なんど)の長持(ながもち)、底に見慣れぬ風呂敷包のありとて、珍らしきもの見たさは十七の娘盛り、

 

 アレ、かあさん、洋服よ、しかも銀ねづの紋緞子(もんどんす)、驚いたものだ、まさかかあさん有(あつ)たんじやなからう、エ、どなたの? 預りものでせう、かあさん?

 

束髪(そくはつ)の根元キリヽと締り、質素ら敷(しき)どことなく頼母敷(たのもしき)四十格好の細君、件(くだん)の問(とひ)には急に答へんともせず、様子有気(ありげ)に微笑て、

 

 マア、好(いゝ)から出してゆつくり御覧なさい、附属品もみんな一処にして置いた筈だつたが………ホラネ、扇も、キッド、クラブス(革の手袋)まで揃へて有ませう、いつか好折(いゝおり)におまへたちに見せて、一とむかし前の話しをして笑はせもしたり、戒(いまし)めにもして上度(あげたい)と心掛て居たのだよ、

 

流行(はやり)こそ廃(すた)れたれ、仕立(したて)下ろしとも見ゆる襟低くのイーヴニング、ドレス、惚々(ほれぼれ)とする色合(いろあひ)、クリーム色レースの取合せまで、流石は眼早く眺め入れる娘、再び驚ろきたる声して、

 

 一寸、かあさん、マア、何ものでせう、此服の膝の上にこんなしみが、丸で西洋地図の様ですよ、勿躰ないじや有ませんか、一躰どふなすつたの?、早くおはなしなさいな、

 

細君は一向平気で、

 

 それが、其汚なら敷(しい)が、かあさんの物語りの要素なんだから、急がずによふくお聞なさいよ、好(いゝ)かい、わたしがまだおまへの年齢(とし)にならない時分、極く最初の英語学校が竹橋女学校といふてネ、西洋好(ずき)の方が娘だちをエー、ビ、シー習(な)らひに始めて通はせる処だつたが、其時、お祖父(じい)さまが、余程の西洋贔屓(びいき)でネ、家娘(うちの)も遣(や)れツて頻(しき)りに八釜敷仰(やかましく・おほせられ)るものだから、恥しかつたが、ヤットのこと一年半計(ばか)り、リードルやスペリングの稽古をし升(まし)たのさ。さうかふする中(うち)に十七の春になつて、こゝの家へお嫁に行けといはれて、何も知らず、計(はか)らはれるまんまに御厄介になることになつたがネ、さて学校へ行つてる時分、水上孝代(みなかみたかよ)といふて、それはそれは学校の花といわれる位美人なり、学才もあり、遊藝も巧みで、誰が見ても人に立勝(たちまさ)つて華やかな方があつたが、其方(そのかた)がどふいふものか、此不束(ふつゝ)かで気象(きせう)から身分から自分とも表裏(うらはら)のわたしをひどくひゐきにして下すつてネ、何から何まで教(をそはつ)たり庇つたりして下さるものだから、内気なわたしもお影で、憂ひことも辛(つらひ)こともなく始めての学校生涯を無事に送り升たのさ。其方は年もわたしに一ツ二ツ姉(あね)さまなり、誰の眼にも着く方だから、わたしがお別れする前から、名は聞漏らしたが、さる立派なお人に達(たつ)て懇望(こんぼう)されてお出(いで)で、間もなくそこへお諚(きま)りだとか聞て居升たは。しかしわたしは書生上(あが)りのおとう様の処へ嫁(か)して世帯の苦労も余計なり、片づく翌年おまへがお生れで、老寄(としより)はなし、慣れない子供の世話に齪促(あくせく)と月日を過ごしてしまひ升た。身嗜(みだしなみ)によめと仰(おつしや)る新聞雑誌や折々易い新版物、これ計りは子供の為と仕事の合間合間に拾ひ読(よみ)するが勢(せい)一杯で、世の潮(しほ)につれて入れ替わる流行(はやり)も気に掛ける暇(いとま)もなく、それを追ふて行く余裕も有ませんかつた、それだから、音に高い鹿鳴館のバザアとやらも、遂に覗いて見たこともなく、遣(つか)ひものに貰らふた手下げさへ、なんとなく持つが恥(はづ)か敷(しい)位でした。

 さうでしたらう、どふもうちのかあさんの様な扣目(ひかへめ)の方に此洋服が召せる筈がないんだもの、それじやアどなたの、此服?

 処(ところ)が不思議ではないか、かあさんが此服を着る気になつた時代が有つたから、そこが懺悔話(ざんげばな)しの由来ですよ、マア、お茶でも一ツ持つて来ておくれ、我乍(われなが)ら諚(きま)りのわるい様なあとの話しを続けるから、

 

細君は湯呑の茶に唇を湿(しめら)し、

 

 それから、たしか十九年の霜月のことかとおもふよ、おまへは八ツでしたらう、寿(ひさし)が五ツで、秀坊(ひでぼう)がヤツトチヨロチヨロ歩(あ)るきをする時分だつた、日曜のことで、天気はよし、客の足も其時分は遠いものだから、ツイ座敷を開け払つて、おとうさんが御注文の牛鍋をヂヤヂヤやつて居らしやると、おまへは覚へて居まいが、寿が何気なく外から這入(はい)つて来て、「お客さまだよ、綺麗な西洋人見たいな人ッていふから、男かと尋ねると女だ、奥様だといふから、そんな人に訊ねられる覚へはないとおもひ、角(かど)ちがいかとも考へて前垂(まへだれ)のまんま、玄関へ出て行(いつて)みたのさ、スルト、忘れもしない水上孝代さん、見違へるほど華麗(はでやか)になつて、其(その)スラリとした洋服姿といつたらわたしとしたことが物を言はずに呆気にとられて立て居升たよ、わたしと摩(す)れちちがいに出た鍋墨(なべすみ)だらけの下女へお渡しになつた名刺には「宮村孝代」と認(したゝ)めてあつた、これは当時上流社会に利者(きけもの)と評判のある○○局長と此時思ひあたりはしたが、さてはと心づくと共に、訳もなく諚(きま)りわるく、恐気(おそれげ)づいて、挨拶さへも捗(はか)どらぬこちらの心中は、一向先様(さきさま)へは通らず、十年昔し別れた時と同じ調子にそれはそれは勿体ないほど親敷(したしき)さうにして下さる。先々(まづまづ)といつて座敷へ通しはしたが、相悪(あひにく)と牛鍋の香(にほ)ひ、今おもふても、顔から火が出る様ですよ。深底(しんそこ)心に至誠(まこと)あつてか、たゞしは気転といふものか、孝代さんは座敷の安ツぽい普請(ふしん)にも、庭の狭いにも、わたしにとつては何より恥か敷(しい)例の香(かほり)にさへ一向心のとまらぬかの様(さま)、小鳥の様(やう)な声してスラスラと無造作に、

 私はけふほど嬉敷(うれしき)ことは有ませんよ、とうとうあなたの有家(ありか)を尋ねあてたのですもの、まだ学校のことはお忘れじや有升まい、あなたほどあの中間(なかま)で柔順(すなほ)なあどけない方は有ませんでしたよ、よく姉(ねへ)さんぶつてあなたを自由にし升たつけネ、お別れ申てからだつて、決して忘れはしませんの、心に掛けて居ればこそ、それと思ふ方にお尋ねすると、漸くそれも先達(せんだつて)始めて分り升たの、お少児(ちいさい)のがおあり遊ばすつてネ、アレお三人!、上が、お嬢様…………あとが、さつき出て居らしつた、さうですか、赤ちやんも本当に凛々敷(りゝしい)坊ちやまですこと。私などは可哀さうでせう、此年をしてまだ一人も有ませんよ、ですから一日くだらないこと計(ばか)りに送つてしまひ升。

 これから三日後にわたしは宮村夫人の訪問の返礼に、音羽の本宅を一寸たづね升た。

 

 (下)

 

 来て見れば、思ひ設けたこと乍ら、先(ま)づ門構への厳(いか)めしさに気落(きおち)し、向(むかふ)から来る箱馬車はこゝへ止(とゞ)まりはせぬかと余計なことに迄我車(わがくるま)を控えさせ、漸くのことで取次を頼めば、奥様は折よくお宅で、お客様もないとのこと、先づ嬉しやと胸を撫下ろし升た。住居(すまゐ)は南向で、それはそれはどこまで手勝手が好(よ)からうとおもふほどな数奇作(すきづく)り、尤(もつと)もこの一棟は日本風で、それと鍵の手に広やかな西洋間二ツ、これは其春新築なさつたとかお話しが有つた様でした。此二間の飾りつけは申すまでもなく、万事西洋風で、当時流行(りうかう)の骨頂を競ふお家のものと思へば世間慣れぬわたしには、据(すえ)つけのピヤノを始めとして何から何まで珍ら敷(しく)結構に見へ升た。孝代さんは遠慮勝なわたしの様子を見てとり、珍客だとてさまで喋々敷(てうてうしく)はせず、気の置けぬ様、ゆつくりと一日保養の出来る様にと、それはそれは手厚いもてなし、わたしは久振りで、一日極楽をし升た。孝代さんは深実(しんじつ)、わたしを愛して下さる様子で、此時も、繰返し繰返し、「本当にあなたに逢つて嬉しい、わたしはかふいふ家へ嫁(き)て交際(つきあひ)こそひろいけれど、心のゆるせる友だちが幾人あらう、それだから、尚(なほ)さらあなたの様な旧友が懐かしい、どふぞ親しくして下さい、御用も多からうが度々来て、シンミリとした話がして戴き度(た)い、わたしも折々御邪魔します、旦那様さへお管(かま)ひなければ」といふ様な調子で、わたしもマア頼母敷方(たのもしいかた)だとおもひ、どふぞ深実な交際(つきあひ)がして見たいとおもひ、又必要といふではないが、折々かふいふ処へ来て見れば、上流社会とか、当時世間にいふ男女(なんによ)交際とかいふものゝ振合(ふりあひ)も自然心得る都手(つて)にもなり、飛んだ好(いゝ)ことだとおもひ其日は夕飯まで御馳走になり、お手製だといふジャムをうちへのお土産にイソイソして帰り升た。モウおまへ嫌(いや)になつたかへ、余りお話しが長くつて?、又今度にしようか?。

 アレ、かあさん、こんなに熱心に聴いてゐ升のに、それから、丸で小説みたいな話しね、

 それじやア、あとを手短に話しませう。暮だつていふのに、余り気楽らしいから、ネ、さうじやないか、ホヽヽヽヽ

 でも、おつかさん、空手(からて)じやなし、かふやつて、秀さんの手袋を編(あみ)ながら伺(うかゞつ)てるんですもの、ゆつくり話して頂戴よ、

「それではね……」暫く考へて、何やら思ひ出(いだ)せし様に「おぼえて居升よ、其晩方帰つて来た時のことを、魔がさしたといへばマアあんなことでもいふのだらうか、其朝うちを出たわたしとはガラリと違つた人間になつたかの様でネ、先づはいる門からして気に食はないのですもの、アヽなぜこんな安ツぽい家に居ることだらう、わたしは余り外観は関(かまは)ぬ方だが、万事モ少し心づかねばなるまい、孝代さんが此間お出(いで)の時なんとお思ひだつたらう、アヽおもふてもゾツトするのはあの牛鍋のこと、それにしても、旦那様は今だに書生風がお抜けなさらず、あんな下卑(げび)たお料理がお好だから、ほんとに……なんぞつてネ、とんだ処までとばつちりを遣り升たよ、それから、戴いて来たジャムをパンにつけて子供たちに食べさせ乍ら、おとう様にけふのお話しをすると、昔しから優しいおとう様だから一日わたしが気保養をしたとつて悦(よろこ)んで下さる、それにわたしは又、平常(ふだん)とは魂の居処がかわつたと見へて、おとう様の仰ることが何やら一々気に障り、知らず知らず角(かど)立つた物言ひをしたと見へて、何も仰らなかつたが、ヂット顔を見ておいでのをよふくおぼえて居升よ。かふやつて考へるときのふのことかと思はれるよ、アレ、茶の間に今でも掛つてるあの額ネ、果物の、あれが油画擬(まが)ひだから外聞がわるいといつて、わたしがおとう様に食てかゝる様に申すとネ、おとう様がけふに限つてなぜそんなことを気にするかと、仰らない計りに「おまへそれでも本場でなくとも上等なクロモだよ」と仰つたお顔がまだ見える様ですよ、スルトどふだらう滅多に口ごたへなどはしたことのないわたしが、「さう仰い升が、擬物(まがひ)に好悪(いゝわ)るいが有ませうか、本当にこんなものは人様の見えない処へかけて置度(おきた)ひ」なんぞつて、嫌(いや)に嶮岨(けんそ)な顔つきになつたらうとおもふよ。

 それから、コウツト、師走の中半頃(なかば)までも二度計りも孝代さんが来て下すつたつけが、いつも洋服で、わたしも羨(うらや)む積りはないが、流行とはよくいつたもので、今こそ女の洋服着(つけ)る風は流れて行つてしまつた様なもんの、其折はみんな同僚の方々(かたがた)の細君(さいくん)でさへ一揃へやそこら心配してもお拵(こし)らへなさる時節だから、自分も人並なものがなくつては肩身がせまいとおもふ様になり升たよ、今でこそ馬鹿気て話すうちが気恥かしいけれど、そこへもつて来て、孝代さんが仰るにはあなただつてチツト世間を御覧なさるが好い、おうちの治め方のお手際はたしかにわたしが見届けた、旦那様には不平が有らう筈はない、併し当節柄(たうせつがら)うちに引込んで計り居ると、時勢に後(おく)れるといふこともある、交際社会には馬鹿馬鹿敷(しい)ことも多くあるが、見て置て身だしなみになることも中になくはないなどと程よくそれとはなしに誘ひ出されるので、ウツカリ其気になつたものと見へ、孝代さんが宅で新年宴会を催すからキツト其時は来て下さい、序(ついで)にあなた服を一揃ひお拵(こし)らへなすつては?、皆さんがそれですよ、裾(すそ)に綿をつめてプクプクさせて紋附(もんつき)などは実に見とむなくて……などとそゝのかされて、わたしはすつかり乗地(のりぢ)になつたじやないか。とうとうおとう様におねだり申すと、なんだか顔を妙に見て居らしつたが、不承知はけつして仰やらず、「着物ねだりなどはしたことのないおまへだから、どんなにもしてやり度(たい)が、充分にも行(ゆか)ないから先づ中等にして置け」と仰つて卅円下すつたよ、それから品の撰びから、仕立(したて)万端、みんな孝代さんのお世話で、マア、新年宴会に間に合つたことは間に合升たのさ。出来上る、着て見るまでは、孝代さんが側でヤレソレつて世話をやいて下すつたが、さてうちから着て出て会の人に顔を見られる辛さといつたら忘(わすれ)られないよ、なんのことはないリードルで読んだ、ソレあの孔雀の羽を拾つて尻尾へさしたといふ烏ネ、自分の風俗(なり)が余り粗末だとつてトントあれさ、角(すみ)へ引込み度(たい)のだが、西洋の風俗として、引込む人は尚のこと引出すのだから。口不調法なわたしが交際なれたみなさんにとんと手玉にとられた様なものだよ、イヤピヤノを鳴(なら)せの舞踏をやれのつて。

 かあさん、そうしてあの染(しみ)は?

 アレハネ、シヤムパンとかいふ赤い様な綺麗な御酒を是非一杯といつてネ、どこのノラクラ若様だかゞわたしに強勧(わるじひ)なすつて、わたしが顔を赤らめて、お断りを申す途端に手を滑らして座つて居た膝の上へスツカリさ……それがどふといふことはないけれど、其日の馬鹿らし加減が深底(しんそこ)心に染みて、わたしは上流社会の見習ひも、男女交際会のお稽古も其日限りフツヽリ思切升(おもひきりまし)たよ。帰つて来てネ、よふくとう様にお詫を申したら、お笑ひなすつて、交際社会の風俗が呑込(のみこめ)たら卅円の服代位は安い月謝だと仰(おつしや)つたよ…………

 

 ──初出:『少年世界』明治二十九年(1896)一月一日、同二月一日──

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Wakamatsu Shiduko
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on Sep 17, 2003

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