招待席

森 鷗外

もり おうがい 小説家 1862(文久2)年 - 1922(大正11)年 島根県生まれ。東京帝大医学部卒業後、陸軍軍医となり、ドイツ留学。軍医総監を経て帝室博物館長兼図書頭として生涯を終えた。公 務の傍ら訳詩集『於母影』をかわきりに詩、戯曲、小説、評論および翻訳に健筆をふるい、晩年には『澁江抽斎』をはじめとする史伝への道も開いた。掲載作は 1914(大正3)年「太陽」初出。歴史小説より史伝への移行を予兆した平淡温厚の滋味掬すに足る逸品。

安井夫人

 「仲平ち ゆうへいさんはえらくなりなさるだらう」と云ふ評判と同 時に、「仲平さんは不男ぶ をとこだ」と云ふ蔭 言かげことが、C 武一郷きよたけいちがうに 傳へられてゐる。

 仲平の父は日向國ひ うがのくに宮 崎郡みやざきごほりC 武村きよたけむらに 二たん八 畝程 の宅地があつて、そこに三む ねの家を建てゝ住んでゐる。財産としては、宅地を少し離 れた所に田畑た はたを持つてゐて、年來家で漢學を人の子弟に教へるか たはら、耕作をめ ずにゐたのである。し かし仲平の父は、三十八の時江戸へ修 行しゆぎやうに 出て、中一年置いて、四十の時歸國してから、段々飫肥お び藩で任用せられるやうになつたので、今では田畑の大部 分を小作人に作らせることにしてゐる。

 仲平は二男である。兄文治ぶ んぢが九つ、自分が六つの時、父は兄弟を殘して江戸へ立 つたのである。父が江戸から歸つた後、兄弟の背丈が伸びてからは、二人共毎朝書物を懐中して畑打は たうちに出た。そしてよ その人が煙 草休たばこやすみを する間、二人は讀書にふ けつた。

 父が始て藩の教授にせられた頃の事である。十七八の文治と十四五の仲平とが、例の畑打に通ふと、道で行き逢ふ人が、皆言ひ合せたやう に二人を見較べて、つ れがあれば聨に何事をかさゝやいた。背の高い、色の白 い、目鼻立の立派な兄文治と、背の低い、色のKい、片目の弟仲平とが、いかにも不吊合ふ つりあひ一 對いつつゐに 見えたからである。兄弟同時にした疱瘡は うさうが、兄は輕く、弟は重く、弟は大 痘痕おほあばたに なつて、あま つさへ右の目がつ ぶれた。父も小さい時疱瘡をして片目になつてゐるのに、 又仲平が同じ片羽か たはになつたのを思へば、「偶然」と云ふものも殘酷なも のだと云ふ外はない。

 仲平は兄と一しよに步くのをつらく思つた。そこで朝は少し早目に食事を済ませて、一足先に出、晩は少し居殘つて爲 事しごとを して、一足遲れて歸つて見た。併し行き逢ふ人が自分の方を見て、聨とさゝやくことはま なかつた。そればかりではない。兄と一しよに步く時よりも、行き逢ふ人の態度は餘程不遠慮になつて、さゝやく聲も常より高く、中には聲を掛けるものさへあ る。

「見い。けふは猿がひとりで行くぜ。」

「猿が本を讀むから妙だ。」

「なに。猿の方が猿引さ るひきよりはく 讀むさうな。」

「お猿さん。けふは猿引はどうしましたな。」

 交通の狹い土地で、行き逢ふ人は大抵り 合つた中であつた。仲平はひとりで步いて見て、二つの發明をした。一つは自分がこれまで兄の庇護のも とに立つてゐながら、それを悟らなかつたと云ふことであ る。今一つは、驚くべし、兄と自分とに渾名あ だなが附いてゐて、醜い自分が猿と云はれると同時に、兄 までが猿引と云はれてゐると云ふことである。仲平は此發明を胸にを さめて、誰にも話さなかつたが、その後はひ て兄と離れ離れに田畑へ往反わ うへんしようとはしなかつた。

 仲平に先だつて、體の弱い兄の文治は死んだ。仲平が大阪へ修行に出て篠崎小竹し のざきせうちくの塾に通つてゐた時に死んだのである。仲 平は二十一の春、金子き んす十兩を父の手から受け取つてC武村を立つた。そして 大阪土佐堀三丁目の藏屋敷く らやしきに著いて、長屋の一 間ひとまを 借りて自炊をしてゐた。儉約のために大豆を鹽と醤油とで煮て置いて、それを飯のさ いにしたのを、藏屋敷では「仲 平豆ちゆうへいまめ」 と名づけた。同じ長屋に住むものが、あれでは體が續くまいと氣遣つて、酒を飲むことを勸めると、仲平は素直に聽きれ て、毎日一合づつ酒を買つた。そして晩になると、その一合入のコ利を紙撚こ よりで縛つて、行 燈あんどうの 火の上にる して置く。そして燈火に向つて、篠崎の塾から借りて來た本を讀んでゐるうちに、半夜は んやさ だまつた頃、燈火で尻をあぶられたコ利の口から、蓬 々ほうほうと して蒸氣が立ちの ぼつて來る。仲平はま きい て、コ利の酒をう まさうに飲んで寢るのであつた。中一年置いて、二十三に なつた時、故郷の兄文治が死んだ。學殖は弟に劣つてゐても、才氣の鋭い若者であつたのに、兎角と かく病氣で、たうとう二十六歳で死んだのである。仲平は訃 音ふいんを 得て、すぐに大阪を立つて歸つた。

 其後仲平は二十六で江戸に出て、古賀侗庵こ がとうあんの門下に籍を置いて、昌 平黌しやうへいくわうに 入つた。後世の註疏ち ゆうそら ずに、直ちに經義け いぎき はめようとする仲平がためには、古賀より松 崎慊堂まつざきかうだうの 方がなつか しかつたが、昌平黌に入るには林か古賀かの門に入らなくてはならなかつたのである。痘痕あ ばたがあつて、片目で、背の低い田 舍いなか書 生は、こゝでも同窓に馬鹿にせられずには済まなかつた。それでも仲平は無頓著む とんぢやくに默り込んで、獨り讀書にふ けつてゐた。坐右の柱に半 折はんせつに 何やら書いてつ てあるのを、からかひに來た友達が讀んで見ると、「今はし のぶが岡の時 鳥ほとゝぎすい つか雲井のよそに名告な のらむ」と書いてあつた。「や、えらい抱負ぢやぞ」と、 友達は笑つて去つたが、腹の中ではやゝ氣 味惡くも思つた。これは十九の時漢學に全力を傾注するまで、國文をも少しばかり研究した名殘な ごりで、わざと流儀ち がひの和歌の眞似をして、同窓の揶 揄やゆむ くいたのである。

 仲平はまだ江戸にゐるうちに、二十八で藩主の侍讀じ どくにせられた。そして翌年藩主が歸國せられる時、供を して歸つた。

 今年の正月からC武村あ ざ中野に藩の學問所が立つことになつて、工事の最中であ る。それが落成すると、六十一になる父滄洲翁さ うしうをうと、今年江戸から藩主の供をして歸つた、二十 九になる仲平さんとが、父子共に講壇に立つ筈である。其時滄洲翁が息子によめを取らうと云ひ出した。併しこれは決して容易な問題ではない。

 江戸がへり、昌平黌じこみと聞いて、「仲平さんはえらくなりなさるだらう」と評判する郷里の人達も、痘 痕あばたが あつて、片目で、背の低い男振を とこぶりを見ては、「仲平さんは不男だ」と蔭言を言はず には置かぬからである。

 

 滄洲翁は江戸までも修行に出た苦勞人である。せ がれ仲平が學問修行も一 通ひととほり出 來て、來年は三十にならうと云ふ年になつたので、是非よめを取つてり たいとは思ふが、そ の選擇のむづかしい事には十分氣が付いてゐる。

 背こそ仲平程低くないが、自分も痘痕があり、片目であつた翁は、異性に對する苦い經驗をめ てゐる。識らぬ少女と見合をして縁談を取りめ ようなどと云ふことは自分にも不可能であつたから、自分と同じ缺陷があつて、しかも背の低い仲平がために、それが不可能であることは知れてゐる。仲平のよ めは早くから氣心を識り合つた娘の中から選び出すほ かない。翁は自分の經驗からこんな事をも考へてゐる。そ れは若くて美しいと思はれた人も、暫く交際してゐて、智慧の足らぬのが暴露して見ると、其美貌はいつか忘れられてしまふ。又三十になり、四十になると、智 慧の不足が顏にあらはれて、昔美しかつた人とは思はれぬやうになる。これとは反對に、顏貌か ほかたちにはき ずがあつても、才人だと、交際してゐるうちに、その醜さ が忘れられる。又年を取るに從つて、才氣が眉目み めをさへ美しくする。仲平なぞも只一つのKい瞳をきらつ かせて物を言ふ顏を見れば、立派な男に見える。これは親の贔屓目ひ いきめばかりではあるまい。どうぞあれが人物を識つた女 をよめに貰つて遣りたい。翁はざつとかう考へた。

 翁は五節句や年忌に、互に顏を見合ふ親戚の中で、未婚の娘をあれかこれかと思ひ浮べて見た。一番華やかで人の目に附くのは、十九にな る八重やへと 云ふ娘で、これは父が定府ぢ やうふを勤めてゐて、江戸の女を妻に持つて生ませたので ある。江戸風の化粧をして、江戸詞え どことばつ かつて、母に踊をしこまれてゐる。これは貰はうとした所 で來さうにもなく、又好ましくもない。な りが地味で、心の氣 高けだかい、 本も少しは讀むと云ふ娘はないかと思つて見ても、生憎あ いにくさう云ふむ き女子を なごは一人もない。どれもどれも平凡き はまつた女子ばかりである。

 あちこち迷つた末に、翁の選擇はたうとう手近い川添か はぞへの娘に落ちた。川添家は同じC武村の大 字おほあざ今 泉、小字こあざ岡 にある翁の夫人の里方で、そこに仲平の從妹い とこが二人ある。妹娘の佐 代さよは 十六で、三十男の仲平がよめとしては若過ぎる。それに器量好しと云ふ評判の子で、若者共の間では「岡の小町」と呼んでゐるさうである。どうも仲平とは不 吊合ふつりあひな やうに思はれる。姉娘の豐なら、もう二十は たちで、遲く取るよめとしては、年齡の懸 隔けんかく太 甚はなはだし いと云ふ程ではない。豐の器量は十人竝である。性質にはこれと云つて立ちま さつた所はないが、女にめづらしく快活で、心に思ふまゝを 口に出して言ふ。その思ふ儘がいかにも素直で、なんのわだかまりもない。母親は「臆面お くめんなしで困る」と云ふが、それが翁の氣に入つてゐ る。

 翁はかう思ひ定めたが、さて此話を持ち込む手續に窮した。いつも翁に何か言はれると、つゝ しんでう けたまはると云ふ風になつてゐる少女等に、直接に言ふこ とは勿論出來ない。外舅し うと外姑し うとめが亡くなつてからは、川添の家には卑 屬ひぞくし かゐないから、翁がうかと言ひ出しては、先方で當惑するかも知れない。他人同士では、かう云ふ話を持ち出して、それが不調に終つた跡は、少くも暫くの間交 際がこれ迄ど ほりに行かぬことが多い。親戚間であつて見れば、其邊に 一層心を用ゐなくてはならない。

 こゝに仲平の姉で、長倉の御新造ご しんぞと云はれてゐる人がある。翁はこれに意中を打ち明 けた。「亡くなつた兄いさんのおよめになら、一も二もなく來たのでございませうが」と云ひ掛けて、御新造は少しためらつた。御新造はさう云ふ方角からはお 豐さんを見てゐなかつたのである。併しおさ まにョまれた上で考へて見れば、ほ かに弟のよめに相應した娘も思ひ當らず、又お豐さんが不 承知を言ふに極まってゐるとも思はれぬので、御新造はたうとう使者の役目を引き受けた。

 

 川添の家では雛祭ひ なまつりの支度をしてゐた。奥のへ 色々な書附をした箱を一ぱい出し散らかして、其中からお豐さんが、内裏様だ いりさまやら五 人囃ごにんばやしや ら、一つびとつ 取り出して、綿や吉野紙をけ て置き竝べてゐると、妹のお佐代さんがちよいちよい手を出す。「い からわたしに任せておお き」と、お豐さんは妹を叱つてゐた。

 そこの障子をあけて、長倉の御新造が顏を出した。手にはみやげに切らせて來た緋桃ひ もゝの枝を持つてゐる。「まあ、お忙しい最中でございま すね。」

 お豐さんは尉姥じ よううばの人形を出して、は うきと熊手とを人形の手にし てゐたが、其手をめ て桃の花を見た。「お内の桃はもうそんなに咲きましたか。こちらのはまだつ ぼみがずつと小さうございます。」「出 掛でかけに 急いだもんですから、ほんの少しばかり切らせて來ました。澤山おい けになるなら、いくらでも取りにおよこしなさいよ。」か う云つて御新造は桃の枝をわたした。

 お豐さんはそれを受け取つて、妹に「こゝは此儘こ のまゝそつくりして置くのだよ」と云つて置いて、桃の枝 を持つて勝手へ立つた。

 御新造は跡から附いて來た。

 お豐さんは臺所の棚から手桶をお ろして、それを持つて側の井戸端に出て、水を一 釣瓶ひとつるべ汲 み込んで、それに桃の枝を投げ入れた。すべての動作がいかにも甲斐々々か ひがひしい。使命を含んで來た御新造は、これならば弟の よめにしても早速役に立つだらうと思つて、微笑を禁じ得なかつた。下駄を脱ぎ棄てゝ臺所にあがつたお豐さんは、壁につ てある竿の手拭で手をい てゐる。其側へ御新造がり 寄つた。

「安井では仲平におよめを取ることになりました。」劈頭へ きとうに御新造は主題を道 破だうはし た。

「まあ。どこから。」

「およめさんですか。」

「えゝ。」

「そのおよめさんは」と云ひさして、ぢつとお豐さんの顏を見つゝ、「あなた。」

 お豐さんは驚きあ きれた顏をして默つてゐたが、暫くすると、其顏にゑ みたゝへ られた。「う そでせう。」

「本當です。わたしそのお話をしに來ました。これからお母あ様に申し上げようと思つてゐます。」

 お豐さんは手拭を放して、兩手をだらりと垂れて、御新造と向き合つて立つた。顏からは笑が消え失せた。「わたし仲平さんはえらい方だ と思つてゐますが、御亭主にするのはい やでございます。」冷然として言ひ放つた。

 

 お豐さんの拒絶が餘り簡明に發表せられたので、長倉の御新造は話の跡を繼ぐ餘地を見出すことが出來なかつた。し かしこれ程の用事を帶びて來て、それを二人の娘の母親に 話さずにも歸られぬと思つて、直談判ぢ きだんぱんをして失敗した顛 末てんまつを、 川添の御新造にざつと言つて置いて、ギヤマンのコップに注いで出された白酒を飲んで、暇乞い とまごひをした。

 川添の御新造は仲平贔屓び いきだつたので、ひどく此縁談の不調を惜んで、お豐にし つかり言つて聞せて見たいから、安井家へは當人の輕率な返事を打ち明けずに置いてくれとョんだ。そこでお豐さんの返事を以て復命することだけは、一時見合 せようと、長倉の御新造が受け合つたが、どうもお豐さんが意をひ るがへさうとは信ぜられないので、「どうぞ無理におすゝ めにならぬやうに」と言ひ殘してつ て出た。

 長倉の御新造が川添の門を出て、道の二三丁も來たかと思ふ時、跡から川添に使はれてゐる下 男げなんの 音吉が驅けて來た。急に話したい事があるから、御苦勞ながら引き返して貰ひたいと云ふ口上を持つて來たのである。

 長倉の御新造は意外のお もひをした。どうもお豐さんがさう急に意をひ るがへしたとは信ぜられない。何の話であらうか。かう思 ひながら音吉と一しよに川添へ戻つて來た。

「お歸掛か へりがけをわざわざお呼 戻よびもどしい たして済みません。實は存じ寄らぬ事が出來まして。」待ち構へてゐた川添の御新造が、戻つて來た客の座に著かぬうちに云つた。

「はい。」長倉の御新造は女主人の顏をまもつてゐる。

「あの仲平さんの御縁談の事でございますね。わたくしは願うてもない好い先だと存じますので、お豐を呼んで話をいたして見ましたが、矢 張まゐられぬと申します。さういたすとお佐代が姉に其話を聞きまして、わたくしの所へまゐつて、何か申しさうにいたして申さずにをりますのでございます。 なんだえと、わたくしが尋ねますと、安井さんへわたくしが參ることは出來ますまいかと申します。およめに往くと云ふことはどう云ふわけのものか、ろくに分 からずに申すかと存じまして、色々聞いて見ましたが、あちらで貰うてさへ下さるなら自分は往きたいと、きつぱり申すのでございます。いかにも差出がましい 事でございまして、あちらの思はくもいかゞとは存じますが、兎に角あなたに御相談申し上げたいと存じまして。」さも言ひにくさうな口 吻くちぶりで ある。

 長倉の御新造はい よいよ意外の思をした。父は此話をする時、「お佐代は若 過ぎる」と云つた。又「あまり別品べ つぴんでなあ」とも云つた。併しお佐代さんを嫌つてゐる のでないことは、平生へ いぜいから分かつてゐる。多分父は吊 合つりあひを 考へて、年がつ てゐて、器量の十人竝なお豐さんをと望んだのであらう。それに若くて美しいお佐代さんが來れば、不足はあるまい。それにしても控 目ひかへめで 無口なお佐代さんがく そんな事を母親に云つたものだ。これは兎に角父にも弟にも話して見て、出來る事なら、お佐代さんの望通の ぞみどほりにしたいものだと、長倉の御新造は思案してか う云つた。「まあ、さうでございますか。父はお豐さんをと申したのでございますが、わたくしがちよつと考へて見ますに、お佐代さんでは惡いとは申さぬだら うと存じます。早速あちらへまゐつて申して見ることにいたしませう。でもあの内氣う ちきなお佐代さんが、好くあなたにお つしやつたものでございますね。」

「それでございます。わたくしも本當にびつくりいたしました。子供の思つてゐる事は何から何まで分かつてゐるやうに存じてゐましても、大 違おほちがひで ございます。お父う様にお話下さいますなら、當人を呼びまして、こゝで一應聞いて見ることにいたしませう。」かう云つて母親は妹娘を呼んだ。

 お佐代はおそるおそる障子し やうじをあけてはひつた。

 母親は云つた。「あの、さつきお前の云つた事だがね、仲平さんがお前のやうなものでも貰つて下さることになつたら、お前きつとく のだね。」

 お佐代さんは耳まで赤くして、「はい」と云つて、下げてゐた頭を一層低く下げた。

 

 長倉の御新造が意外だと思つたやうに、滄洲翁も意外だと思つた。し かし一番意外だと思つたのは壻 殿むこどのの 仲平であつた。それは皆怪訝く わいがすると共に喜んだ人達であるが、近所の若い男達は 怪訝すると共にそ ねんだ。そして口々に「岡の小町が猿の所へ往く」とう はさした。そのうち噂はC武一郷に傳 播でんぱし て、誰一人怪訝せぬものはなかつた。これはよ ろこびそ ねみま じらぬ只の怪訝であつた。

 婚禮は長倉夫婦の媒妁ば いしやくで、まだ桃の花の散らぬうちに済んだ。そしてこ れまで只美しいとばかり云はれて、人形同様に思はれてゐたお佐代さんは、ま ゆを破つて出たの やうに、その控目ひ かへめな、内氣な態度を脱 却だつきやくし て、多勢の若い書生達の出入で いりする家で、天 晴あつぱれ地 步を占めた夫人になりおほせた。

 十月に學問所の明教堂が落成して、安井家の祝筵し ゆくえんに親戚故舊が寄り集まつた時には、美しくて、し かもきつぱりした若夫人の前に、客の頭が自然に下がつた。人に揶揄か らかはれる世間のよめさんとは全く趣をこ とにしてゐたのである。

 

 翌年仲平が三十、お佐代さんが十七で、長女須磨子す まこが生れた。中一年置いた年の七月には、藩の學校が飫 肥おびう つされることになつた。其次の年に、六十五になる滄洲翁 は飫肥の振コ堂の總裁にせられて、三十三になる仲平が其下で助教を勤めた。C武の家は隣にゐた弓削ゆ げと云ふ人が住まふことになつて、安井家は飫肥の加茂に代 地だいちを 貰つた。

 仲平は三十五の時、藩主の供をして再び江戸に出て、翌年歸つた。これがお佐代さんが稍長い留守に空 閨くうけいを 守つた始である。

 滄洲翁は中風ち ゆうぶうで、六十九の時亡くなつた。仲平が二度目に江戸 から歸つた翌年である。

 仲平は三十八の時三たび江戸に出で、二十五のお佐代さんが二度目の留守をした。翌年仲平は昌 平黌しやうへいくわう斎 長さいちやうに なつた。次いで外櫻田そ とさくらだの藩邸の方でも、仲平に大 番所番頭おほばんしよばんがしらと 云ふ役を命じた。其次の年に、仲平は一旦歸國して、間もなく江戸へ移住することになつた。今度はいづれ江戸に居 所ゐどころま つたら、お佐代さんをも呼び迎へると云ふ約束をした。藩の役をめ て、塾を開いて人に教へる決心をしてゐたのである。

 此頃仲平の學殖はや うやく世間に認められて、親友にも鹽 谷宕陰しほのやたういんの やうな立派な人が出來た。二人一しよに散步をすると、男振はどちらも惡くても、兎に角背の高い鹽谷が立派なので、「鹽 谷一丈雲横腰しほのやいちぢやう くもこしによこたはる安 井三尺草埋頭やすいさんじやく くさかしらをうづむ」 などとひやか された。

 江戸に出てゐても、質素な仲平は極端な簡易生活をしてゐた。歸新參か へりしんざんで、昌平黌の塾に入る前には、千 駄谷せんだがやに ある藩の下邸し もやしきにゐて、其後外櫻田の上 邸かみやしきに ゐたり、増上寺境内の金地院こ んぢゐんにゐたりしたが、いつも自 炊じすゐで ある。さていよいよ移住と決心して出てからも、一時は千駄谷にゐたが、下邸に火事があつてから、始て五番町の賣 居うりすゑを 二十九枚で買つた。

 お佐代さんを呼び迎へたのは、五番町からか み二番町の借家に引き越してゐた時である。所 謂いはゆる三 計塾で、階下に三疊やら四疊半やらの間が二つ三つあつて、階上が斑竹山房は んちくさんばう匾 額へんがくを 掛けた書斎である。斑竹山房とは江戸へ移住する時、本國田野村字假屋か りや虎 斑竹こはんちくを 根こじにして來たからの名である。仲平は今年四十一、お佐代さんは二十八である。長女須磨子に次いで、二女美保子、三女登 梅子とめこと、 女の子ばかり三人出來たが、假初か りそめや まひのために、美保子が早く亡くなつたので、お佐代さん は十一になる須磨子と、五つになる登梅子とを聨れて、三計塾に遣つて來た。

 仲平夫婦は當時女中一人も使つてゐない。お佐代さんが飯炊まゝ たきをして、須磨子が買物に出る。須磨子の日 向訛ひうがなまりが 商人に通ぜぬので、用が辯ぜずにすごすご歸ることが多い。

 お佐代さんは形振な りふりに構はず働いてゐる。それでも「岡の小町」と云は れた昔のおも かげはどこやらにある。此頃K木孫右衛門と云ふものが仲 平に逢ひに來た。飫 肥外浦おびそとうらの 漁師であつたが、物産學にく はしいため、わざわざ召し出されて徒 士かちに なつた男である。お佐代さんが茶をん で出して置いて、勝手へ下がつたのを見て狡獪か うくわいなやうな、滑 稽こつけいな やうな顏をして、孫右衛門が仲平に尋ねた。

「先生。只今のは御新造様でござりますか。」

「さやう。妻で。」恬然て んぜんとして仲平は答へた。

「はあ。御新造様は學問をなさりましたか。」

「いゝや。學問と云ふ程の事はしてをりませぬ。」

「して見ますと、御新造様の方が先生の學問以上の御見識でござりますな。」

「なぜ。」

「でもあれ程の美人でおい でになつて、先生の夫人におなりなされた所を見ます と。」

 仲平は覺えず失笑した。そして孫右衛門の無遠慮なやうな世辭を面白がつて、得意の笊棋ざ るごの相手をさせて歸した。

 

 お佐代さんが國から出た年、仲平は小川町を がはまちに移り、翌年又牛 込見附外うしごめみつけそとの 家を買つた。値段はわ づか十兩である。八疊の間に床の間と廻 縁まはりえんと が付いてゐて、外に四疊半が一間、二疊が一間、それから板の間が少々ある。仲平は八疊の間に机を据ゑて、周圍に書物を山のやうに積んで讀んでゐる。此頃は靈 岸島れいがんじま鹿 島屋C兵衛かしまやせいべゑが 藏書を借り出して來るのである。一體仲平は博渉家は くせふかでありながら、藏書癖はない。質素で濫 費らんぴを せぬから、生計に困るやうな事はないが、十分に書物を買ふだけの金はない。書物は借りてて、 書き拔いては返してしまふ。大阪で篠崎の塾に通つたのも、篠崎に物を學ぶためではなくて、書物を借るためであつた。芝の金地院に下宿したのも、書庫をあさ るためであつた。此年に三女登梅子が急病で死んで、四女歌子が生れた。

 其次の年に藩主が奏者になられて、仲平に押合方お しあひかたと云ふ役を命ぜられたが、目が惡いと云つてこ とわつた。薄暗い明りで本ばかり讀んでゐたので實際目が好くなかつたのである。

 其又次の年に、仲平は麻布あ ざぶ長坂裏通に移つた。牛込から古家を持つて來て建てさ せたのである。それへ引き越すとすぐに仲平は松島まで觀風旅行をした。淺葱織色木綿あ さぎおりいろもめん打 裂羽織ぶつさきばおり裁 附袴たつつけはかまで、 腰に銀拵ぎんご しらへの大小をし、菅 笠すげがさか ぶ草鞋わ らぢ穿く と云ふ支度した くである。旅から歸ると、三十一になるお佐代さんが始て 男子を生んだ。後に「岡の小町」そつくりの美男になつて、今文尚書き んぶんしやうしよ二十九篇で天下を治めようと云つた才子 の棟藏とうざうで ある。惜いことには、二十二になつた年の夏、暴瀉ば うしやで亡くなつた。

 中一年置いて、仲平夫婦は一時上邸の長屋に入つてゐて、番町袖振坂に轉居した。その冬お佐代さんが三十三で二人目の男子謙助を生ん だ。しかし 乳が少いので、それを雜司谷ざ ふしがや名 主方なぬしかたへ 里子に遣つた。謙助は成長してから父に似た異相の男になつたが、後日安東益斎あ んどうえきさいと名告つて、東 金とうがね、 千葉の二箇所で醫業をして、か たはら漢學を教へてゐるうちに、持前の肝 積かんしやくの ために、千葉で自殺した。年は二十八であつた。墓は千葉町大日寺だ いにちじにある。

 

 浦賀へ米艦が來て、天下多事の秋となつたのは、仲平が四十八、お佐代さんが三十五の時である。大 儒たいじゆ息 軒そくけん先 生として天下に名を知られた仲平は、ともすれば時勢の旋渦中に卷き込まれようとしてわ づかま ぬかれてゐた。

 飫肥藩お びはんでは仲平を相 談中さうだんちゆうと 云ふ役にした。仲平は海防策を獻じた。これは四十九の時である。五十四の時藤田東湖とま じはつて、水 戸景山公みとけいざんこうに 知られた。五十五の時ペルリが浦賀に來たために、攘夷封港論じ やういほうかうろんをした。此年藩政が氣に入らぬので辭 職した。併し相談中をめ られて、用人格と云ふものになつただけで、勤向つ とめむきは前の通であつた。五十七の時蝦 夷えぞ開 拓論をした。六十三の時藩主に願つて隱居した。井伊閣老が櫻田見附で遭難せられ、景山公が亡くなられた年である。

 家は五十一の時隼町は やぶさちやうに移り、翌年火災につ て、燒殘やけの こりの土藏や建具を賣り拂つて番町に移り、五十九の時麹 町かうぢまち善 國寺谷ぜんこくじだにに 移つた。邊務を談ぜないと云ふ事を書いて二階に張り出したのは、番町にゐた時である。

 

 お佐代さんは四十五の時にやゝ重 い病氣をして直つたが、五十の歳暮せ いぼから又床に就いて、五十一になつた年の正月四日に亡 くなつた。夫仲平が六十四になつた年である。跡には男子に、短い運命を持つた棟藏と謙助との二人、女子に、秋元家の用人のせ がれ田中鐵之助にし て不縁になり、次いで鹽谷し ほのやの媒介で、肥 前國ひぜんのくに島 原産の志士中村貞太カ、假名け みやう北有馬太カにし た須磨子と、病身な四女歌子との二人が殘つた。須磨子は後の夫に獄中で死なれてから、お絲、小太カの二人の子を聨れて安井家に歸つた。歌子は母が亡くなつ てから七箇月目に、二十三歳で跡を追つて亡くなつた。

 お佐代さんはどう云ふ女であつたか。美しいは だに粗服をま とつて、質素な仲平に仕へつゝ一生を終つた。飫 肥吾田村おびあがたむら字 星倉から二里ば かり小 布瀬こふせに、同 宗どうそうの 安井林平と云ふ人があつて、其妻のお品さんが、お佐代さんの記念だと云つて、木綿縞も めんじまあ はせを一枚持つてゐる。恐らくはお佐代さんはめつたに絹 物などは著なかつたのだらう。

 お佐代さんは夫に仕へて勞苦を辭せなかつた。そして其報酬には何物をも要求しなかつた。たゞに 服飾の粗に甘んじたばかりではない。立派な第宅て いたくに居りたいとも云はず、結構な調度を使ひたいとも 云はず、うまい 物を食べたがりも、面白い物を見たがりもしなかつた。

 お佐代さんが奢侈し やしを解せぬ程おろかであつたとは、誰も信ずることが出 來ない。又物質的にも、精神的にも、何物をも希求せぬ程恬澹て んたんであつたとは、誰も信ずることが出來ない。お佐代 さんにはたしか に尋常でない望があつて、其望の前には一切の物が塵芥ち りあくたの如く卑しくなつてゐたのであらう。

 お佐代さんは何を望んだか。世間の賢い人は夫の榮達を望んだのだと云つてしまふだらう。これを書くわたくしもそれを否定することは出 來ない。併しし 商人が資本をお ろし財利をは かるやうに、お佐代さんが勞苦と忍耐とを夫に提供して、 まだ報酬を得ぬうちに亡くなつたのだと云ふなら、わたくしは不敏にしてそれに同意することが出來ない。

 お佐代さんは必ずや未來に何物をか望んでゐただらう。そして瞑目め いもくするまで、美しい目の視線は遠い、遠い所に注がれ てゐて、或は自分の死を不幸だと感ずる餘裕をも有せなかつたのではあるまいか。其望の對象をば、或は何物ともしかと辯識してゐなかつたのではあるまいか。

 

 お佐代さんが亡くなつてから六箇月目に、仲平は六十四で江戸城に召された。又二箇月目にコ川將軍に謁 見えつけんし て、用人席にせられ、翌年兩番上席にせられた。仲平が直參ぢ きさんになつたので、藩では謙助を召し出した。次いで謙 助も昌平黌出役になつたので、藩の名跡め いせきは安政四年に中村が須磨子に生ませた長女絲に、高 橋圭三カといふむ こを取つて立てた。併し此夫婦は早く亡くなつた。後に須 磨子の生んだ小太カが繼いだのは此家である。仲平は六十六で陸奥塙む つはなは六萬三千九百石の代官にせられたが、病氣を申し 立てゝ赴任ふに んせずに、小 普請入こぶしんいりを した。

 住ひは六十五の時下谷徒士町し たやかちまちに移り、六十七の時一時藩の上 邸かみやしきに 入つてゐて、麹町一丁目半藏門外の壕端ほ りばたの家を買つて移つた。策士雲井龍雄と月見をした海 嶽樓かいがくろうは、 此家の二階である。

 

 幕府滅亡の餘波で、江戸の騒がしかつた年に、仲平は七十で表向お もてむき隱居した。間もなく海嶽樓は類燒したので、暫く 藩の上邸や下邸に入つてゐて、市中の騒がしい最中に、王子在領家村り やうけむらの農高橋善兵衛が弟政吉の家にひ そんだ。須磨子は三年前に飫 肥おびへ 往つたので、仲平の隱家か くれがへは天野家から來た謙助の妻淑 子よしこと、 前年八月に淑子の生んだ千菊せ んぎくとが附いて來た。産後體の惡かつた淑子は、隱家に 來てから六箇月目に、十九で亡くなった。下總し もふさにゐた夫には逢はずに死んだのである。

 仲平は隱家に冬までゐて、彦根藩の代々木邸に移つた。これは左傳輯釋さ でんしふしやくを彦根藩で出版してくれた縁故からであ る。翌年七十一で舊藩の櫻田邸に移り、七十三の時又土手三番町に移つた。

 仲平の亡くなつたのは、七十八の年の九月二十三日である。謙助と淑子との間に出來た、十歳の孫千菊が家を繼いだ。千菊の夭 折えうせつし た跡は小太カの二男三カが立てた。

附録

一、事實

 明和四年丁亥ひ のとゐ九月三日安 井完やすゐくわんう まる日 下部くさかべ姓。あ ざな子全。號 滄洲がうさうしう。 家在日向國宮崎郡C武村中野。

 寛政八年朝淳あ さあつ生。字子 樸しぼく。 又士禮。通稱文治。號C渓せ いけい

 十一年己未つ ちのとひつじ)正月元旦か う生於C武村今泉岡川添氏之家。字仲平。以 字稱あざなをもつてしようす。 初號C瀧せいら うな かごろ足軒。後息軒。又號半 九陳人はんくちんじん葵 心子きしんし

 文化元年甲子き のえね完至江戸。師事古屋昔 陽せきやう。 訪皆川淇園きえ ん于京都。

 三年丙寅ひ のえとら四月完歸郷。

 四年丁卯ひ のとう完 爲藩治水使くわん、はんのちすゐしとなる

 九年壬申み づのえさる川添氏佐代生。

 十年癸酉み づのととり完爲教授。

 文政元年戊寅つ ちのえとらま き生。槇 非安井氏血族まきはやすゐうぢのけつぞくにあらず。 後千菊夭折。槇權爲戸主ま き、かりにこしゆとなる

 二年己卯つ ちのとう衡至大阪。入篠崎小竹門。

 四年辛巳か のとみ朝淳歿。葬于C武村文榮寺。衡歸郷。

 七年甲申き のえさる完 兼料兵使くわん、れうへいしをかぬ。 衡往江戸。入古賀侗と うあん門。つ いで入昌平黌。

 九年丙戌ひ のえいぬ衡爲侍讀。

 十年丁亥ひ のとゐ衡歸郷。中野明教堂な る

 十一年戊子つ ちのえね須磨生。

 天保二年辛卯か のとう飫 肥おび振 コ堂成。完爲總裁兼教授。衡助教。安井氏う つる飫肥加茂。

 三年壬辰み づのえたつ飫肥安國寺安井氏祖先墓な る

 四年癸巳み づのとみ衡至江戸。居 外櫻田邸そとさくらだのやしきにをる

 五年甲午き のえうま衡歸郷。

 六年乙未き のとひつじ七月二十一日完 卒くわん、そつす。 年六十九。葬于飫肥太平山。是年登梅と め生。

 七年丙申ひ のえさる衡至江戸。居千駄谷邸。

 八年丁酉ひ のととり衡入昌平黌。爲 斎長さいちやうとなる。 爲藩大番所番頭。後移外櫻田邸。又し う居芝金 地院しばこんぢゐんにしうきよす

 九年戊戌つ ちのえいぬ衡歸郷。次 徒江戸ついでえどにうつる。 居千駄谷邸。冬移五番町。

 十年己亥つ ちのとゐ居上二番町。次移小川町。

 十一年庚子か のえね五月八日登梅え うすわ づかに六歳。葬于高輪東禪寺。衡移牛 籠うしごめ門 外。是年歌生。

 十二年辛丑か のとうし衡 任押合方かう、をしあひかたににんず以 病辭やまひをもつてじす

 十三年壬寅み づのえとら移麻布長坂裏通。夏北遊。八月十九日朝 隆生あさたかうまる字 棟卿あざなはとうけい。 通稱棟藏。

 弘化元年甲辰き のえたつ衡居外櫻田邸。次移番町袖振坂。十一月十日敏雄 生。後名のちの な利雄。又ま す。通稱謙吉。又謙助。號默 斎もくさい

 四年丁未ひ のとひつじ衡爲相談中。

 嘉永二年己酉つ ちのととり移隼町。

 三年庚戌か のえいぬ移番町。

 五年壬子み づのえね須磨嫁田中氏。後再嫁中村氏。

 六年癸丑み づのとうし衡罷相談中。爲用人格。

 安政四年丁巳ひ のとみ絲生。是年移善國寺谷。

 五年戊午つ ちのえうま小太カ生。名朝康。號樸 堂ぼくだう

 萬延元年庚申か のえさる請 藩致仕はんにちしをこふ

 文久元年辛酉か のととり罷用人格。

 二年壬戌み づのえいぬ正月四日佐代卒。年五十一。葬于東禪寺。七月 二十日衡被幕府召ば くふにめさる。八月四日歌歿。年二十三。九月十五日衡謁 將軍。二十六日列用人席。

 三年癸亥み づのとゐ二月一日衡爲兩番上席。移下谷徒 士町かちまち。 六月十九日朝隆歿。年二十二。葬于駒籠龍光寺。

 元治元年甲子き のえね二月十日衡任陸 奥塙むつはなは代 官。八月以病辭。

 慶應元年乙丑き のとうし居外櫻田邸。次移半藏門外。九月須磨赴飫肥。居 C武村大久保平山。

 三年丁卯ひ のとう七月飫肥太平山碑成。八月千菊生。

 明治元年戊辰つ ちのえたつ二月十七日衡請幕府致仕。居外櫻田邸。次移千 駄谷邸。三月十三日徒足立郡領家村。四月謙助寓比企郡ひ きごほり番匠村醫小室元長家。七月至下 總國東金しもふさのくにとうがね。 九月二十二日天野氏よ し歿。年十九。葬于龍光寺。十一月徒代々木彦根藩邸。

 二年己巳つ ちのとみ八月居外櫻田邸。

 四年辛未か のとひつじ七月二日謙助自殺于下總。九月衡移土手三番 町。

 九年丙子ひ のえね九月二十三日衡卒。年七十八。葬于駒籠養源寺。

  右參取若山甲藏君息軒傳。現存金石文。安井小太カ君竝依知川敦い ちかはあつし君書信。

二、東京竝其附近遺蹟

 駒籠養源寺。有安井息軒先生碑。明治十一年九月川田剛撰文。日下部東作書。

 有安井須磨子墓。明治十二年五月十九日享年五十一歳。

 有安井千菊墓。明治十六年一月一日享年十八歳。

 有安井槇子墓。明治二十一年十月六日享年七十一歳。

 有安井健一カ墓。明治二十四年九月二日。

 駒籠龍光寺。有安井朝淳之墓。文久三年六月十九日歿。享年二十有一。昌平黌教授安井衡誌。三 浦汝檝みうらじょしふ書。

 有安井孺人天野じ ゆじんあまの墓。明治戊辰九月二十二日殘。享年十九歳。 安井謙助妻。

  右大正三年三月一日往訪ゆ きとぶらふ

 高輪東禪寺。有雪峰妙觀大姉墓。飫肥安井仲平妻川添氏佐代。享年五十一。文久二年壬戌み づのえいぬ正月四日。

 有桂月妙輝信女墓。飫肥安井仲平第四女歌。享年二十三。文久二壬戌み づのえいぬ年八月四日。

 有玉影善童女墓。日州飫肥安井仲平第三女。俗名登梅と め。享年六歳。天保十一庚 子かのえね年 五月八日。

  右大正三年三月七日往訪。

 下總國千葉町大日寺。有安井敏雄墓。明治四年辛未か のとひつじ七月三日歿于下總千葉僑 居けうきよ。 息軒安井衡誌。

  右大正三年四月二十八日。依知川敦君往訪。

Mori Ogai
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on Jun 13, 2003

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