招待席
森 鷗外
もり おうがい 小説家 1862(文久2)年 -
1922(大正11)年 島根県生まれ。東京帝大医学部卒業後、陸軍軍医となり、ドイツ留学。軍医総監を経て帝室博物館長兼図書頭として生涯を終えた。公
務の傍ら訳詩集『於母影』をかわきりに詩、戯曲、小説、評論および翻訳に健筆をふるい、晩年には『澁江抽斎』をはじめとする史伝への道も開いた。掲載作は
1914(大正3)年「太陽」初出。歴史小説より史伝への移行を予兆した平淡温厚の滋味掬すに足る逸品。
安井夫人
「仲平さんはえらくなりなさるだらう」と云ふ評判と同
時に、「仲平さんは不男だ」と云ふ蔭
言が、C
武一郷に
傳へられてゐる。
仲平の父は日向國宮
崎郡C
武村に
二段八
畝程
の宅地があつて、そこに三棟の家を建てゝ住んでゐる。財産としては、宅地を少し離
れた所に田畑を持つてゐて、年來家で漢學を人の子弟に教へる傍、耕作を輟め
ずにゐたのである。併し仲平の父は、三十八の時江戸へ修
行に
出て、中一年置いて、四十の時歸國してから、段々飫肥藩で任用せられるやうになつたので、今では田畑の大部
分を小作人に作らせることにしてゐる。
仲平は二男である。兄文治が九つ、自分が六つの時、父は兄弟を殘して江戸へ立
つたのである。父が江戸から歸つた後、兄弟の背丈が伸びてからは、二人共毎朝書物を懐中して畑打に出た。そして外の人が煙
草休を
する間、二人は讀書に耽つた。
父が始て藩の教授にせられた頃の事である。十七八の文治と十四五の仲平とが、例の畑打に通ふと、道で行き逢ふ人が、皆言ひ合せたやう
に二人を見較べて、聨があれば聨に何事をかさゝやいた。背の高い、色の白
い、目鼻立の立派な兄文治と、背の低い、色のKい、片目の弟仲平とが、いかにも不吊合な一
對に
見えたからである。兄弟同時にした疱瘡が、兄は輕く、弟は重く、弟は大
痘痕に
なつて、剩へ右の目が潰れた。父も小さい時疱瘡をして片目になつてゐるのに、
又仲平が同じ片羽になつたのを思へば、「偶然」と云ふものも殘酷なも
のだと云ふ外はない。
仲平は兄と一しよに步くのをつらく思つた。そこで朝は少し早目に食事を済ませて、一足先に出、晩は少し居殘つて爲
事を
して、一足遲れて歸つて見た。併し行き逢ふ人が自分の方を見て、聨とさゝやくことは息ま
なかつた。そればかりではない。兄と一しよに步く時よりも、行き逢ふ人の態度は餘程不遠慮になつて、さゝやく聲も常より高く、中には聲を掛けるものさへあ
る。
「見い。けふは猿がひとりで行くぜ。」
「猿が本を讀むから妙だ。」
「なに。猿の方が猿引よりは好く
讀むさうな。」
「お猿さん。けふは猿引はどうしましたな。」
交通の狹い土地で、行き逢ふ人は大抵識り
合つた中であつた。仲平はひとりで步いて見て、二つの發明をした。一つは自分がこれまで兄の庇護の下に立つてゐながら、それを悟らなかつたと云ふことであ
る。今一つは、驚くべし、兄と自分とに渾名が附いてゐて、醜い自分が猿と云はれると同時に、兄
までが猿引と云はれてゐると云ふことである。仲平は此發明を胸に藏めて、誰にも話さなかつたが、その後は強ひ
て兄と離れ離れに田畑へ往反しようとはしなかつた。
仲平に先だつて、體の弱い兄の文治は死んだ。仲平が大阪へ修行に出て篠崎小竹の塾に通つてゐた時に死んだのである。仲
平は二十一の春、金子十兩を父の手から受け取つてC武村を立つた。そして
大阪土佐堀三丁目の藏屋敷に著いて、長屋の一
間を
借りて自炊をしてゐた。儉約のために大豆を鹽と醤油とで煮て置いて、それを飯の菜にしたのを、藏屋敷では「仲
平豆」
と名づけた。同じ長屋に住むものが、あれでは體が續くまいと氣遣つて、酒を飲むことを勸めると、仲平は素直に聽き納れ
て、毎日一合づつ酒を買つた。そして晩になると、その一合入のコ利を紙撚で縛つて、行
燈の
火の上に吊る
して置く。そして燈火に向つて、篠崎の塾から借りて來た本を讀んでゐるうちに、半夜人定つた頃、燈火で尻をあぶられたコ利の口から、蓬
々と
して蒸氣が立ち升つて來る。仲平は卷を釋い
て、コ利の酒を旨さうに飲んで寢るのであつた。中一年置いて、二十三に
なつた時、故郷の兄文治が死んだ。學殖は弟に劣つてゐても、才氣の鋭い若者であつたのに、兎角病氣で、たうとう二十六歳で死んだのである。仲平は訃
音を
得て、すぐに大阪を立つて歸つた。
其後仲平は二十六で江戸に出て、古賀侗庵の門下に籍を置いて、昌
平黌に
入つた。後世の註疏に據ら
ずに、直ちに經義を窮めようとする仲平がためには、古賀より松
崎慊堂の
方が懐か
しかつたが、昌平黌に入るには林か古賀かの門に入らなくてはならなかつたのである。痘痕があつて、片目で、背の低い田
舍書
生は、こゝでも同窓に馬鹿にせられずには済まなかつた。それでも仲平は無頓著に默り込んで、獨り讀書に耽つてゐた。坐右の柱に半
折に
何やら書いて貼つ
てあるのを、からかひに來た友達が讀んで見ると、「今は音を忍が岡の時
鳥い
つか雲井のよそに名告らむ」と書いてあつた。「や、えらい抱負ぢやぞ」と、
友達は笑つて去つたが、腹の中では稍氣
味惡くも思つた。これは十九の時漢學に全力を傾注するまで、國文をも少しばかり研究した名殘で、わざと流儀違の和歌の眞似をして、同窓の揶
揄に酬いたのである。
仲平はまだ江戸にゐるうちに、二十八で藩主の侍讀にせられた。そして翌年藩主が歸國せられる時、供を
して歸つた。
今年の正月からC武村字中野に藩の學問所が立つことになつて、工事の最中であ
る。それが落成すると、六十一になる父滄洲翁と、今年江戸から藩主の供をして歸つた、二十
九になる仲平さんとが、父子共に講壇に立つ筈である。其時滄洲翁が息子によめを取らうと云ひ出した。併しこれは決して容易な問題ではない。
江戸がへり、昌平黌じこみと聞いて、「仲平さんはえらくなりなさるだらう」と評判する郷里の人達も、痘
痕が
あつて、片目で、背の低い男振を見ては、「仲平さんは不男だ」と蔭言を言はず
には置かぬからである。
滄洲翁は江戸までも修行に出た苦勞人である。倅仲平が學問修行も一
通出
來て、來年は三十にならうと云ふ年になつたので、是非よめを取つて遣り
たいとは思ふが、其選擇のむづかしい事には十分氣が付いてゐる。
背こそ仲平程低くないが、自分も痘痕があり、片目であつた翁は、異性に對する苦い經驗を嘗め
てゐる。識らぬ少女と見合をして縁談を取り極め
ようなどと云ふことは自分にも不可能であつたから、自分と同じ缺陷があつて、しかも背の低い仲平がために、それが不可能であることは知れてゐる。仲平のよ
めは早くから氣心を識り合つた娘の中から選び出す外ない。翁は自分の經驗からこんな事をも考へてゐる。そ
れは若くて美しいと思はれた人も、暫く交際してゐて、智慧の足らぬのが暴露して見ると、其美貌はいつか忘れられてしまふ。又三十になり、四十になると、智
慧の不足が顏にあらはれて、昔美しかつた人とは思はれぬやうになる。これとは反對に、顏貌には疵があつても、才人だと、交際してゐるうちに、その醜さ
が忘れられる。又年を取るに從つて、才氣が眉目をさへ美しくする。仲平なぞも只一つのKい瞳をきらつ
かせて物を言ふ顏を見れば、立派な男に見える。これは親の贔屓目ばかりではあるまい。どうぞあれが人物を識つた女
をよめに貰つて遣りたい。翁はざつとかう考へた。
翁は五節句や年忌に、互に顏を見合ふ親戚の中で、未婚の娘をあれかこれかと思ひ浮べて見た。一番華やかで人の目に附くのは、十九にな
る八重と
云ふ娘で、これは父が定府を勤めてゐて、江戸の女を妻に持つて生ませたので
ある。江戸風の化粧をして、江戸詞を遣つて、母に踊をしこまれてゐる。これは貰はうとした所
で來さうにもなく、又好ましくもない。形が地味で、心の氣
高い、
本も少しは讀むと云ふ娘はないかと思つて見ても、生憎さう云ふ向の女子は一人もない。どれもどれも平凡極まつた女子ばかりである。
あちこち迷つた末に、翁の選擇はたうとう手近い川添の娘に落ちた。川添家は同じC武村の大
字今
泉、小字岡
にある翁の夫人の里方で、そこに仲平の從妹が二人ある。妹娘の佐
代は
十六で、三十男の仲平がよめとしては若過ぎる。それに器量好しと云ふ評判の子で、若者共の間では「岡の小町」と呼んでゐるさうである。どうも仲平とは不
吊合な
やうに思はれる。姉娘の豐なら、もう二十で、遲く取るよめとしては、年齡の懸
隔も太
甚し
いと云ふ程ではない。豐の器量は十人竝である。性質にはこれと云つて立ち優つた所はないが、女にめづらしく快活で、心に思ふ儘を
口に出して言ふ。その思ふ儘がいかにも素直で、なんのわだかまりもない。母親は「臆面なしで困る」と云ふが、それが翁の氣に入つてゐ
る。
翁はかう思ひ定めたが、さて此話を持ち込む手續に窮した。いつも翁に何か言はれると、謹んで承ると云ふ風になつてゐる少女等に、直接に言ふこ
とは勿論出來ない。外舅外姑が亡くなつてからは、川添の家には卑
屬し
かゐないから、翁がうかと言ひ出しては、先方で當惑するかも知れない。他人同士では、かう云ふ話を持ち出して、それが不調に終つた跡は、少くも暫くの間交
際がこれ迄通に行かぬことが多い。親戚間であつて見れば、其邊に
一層心を用ゐなくてはならない。
こゝに仲平の姉で、長倉の御新造と云はれてゐる人がある。翁はこれに意中を打ち明
けた。「亡くなつた兄いさんのおよめになら、一も二もなく來たのでございませうが」と云ひ掛けて、御新造は少しためらつた。御新造はさう云ふ方角からはお
豐さんを見てゐなかつたのである。併しお父う様にョまれた上で考へて見れば、外に弟のよめに相應した娘も思ひ當らず、又お豐さんが不
承知を言ふに極まってゐるとも思はれぬので、御新造はたうとう使者の役目を引き受けた。
川添の家では雛祭の支度をしてゐた。奥の間へ
色々な書附をした箱を一ぱい出し散らかして、其中からお豐さんが、内裏様やら五
人囃や
ら、一つ一つ
取り出して、綿や吉野紙を除け
て置き竝べてゐると、妹のお佐代さんがちよいちよい手を出す。「好い
からわたしに任せてお置」と、お豐さんは妹を叱つてゐた。
そこの障子をあけて、長倉の御新造が顏を出した。手にはみやげに切らせて來た緋桃の枝を持つてゐる。「まあ、お忙しい最中でございま
すね。」
お豐さんは尉姥の人形を出して、箒と熊手とを人形の手に挿し
てゐたが、其手を停め
て桃の花を見た。「お内の桃はもうそんなに咲きましたか。こちらのはまだ莟がずつと小さうございます。」「出
掛に
急いだもんですから、ほんの少しばかり切らせて來ました。澤山お活になるなら、いくらでも取りにおよこしなさいよ。」か
う云つて御新造は桃の枝をわたした。
お豐さんはそれを受け取つて、妹に「こゝは此儘そつくりして置くのだよ」と云つて置いて、桃の枝
を持つて勝手へ立つた。
御新造は跡から附いて來た。
お豐さんは臺所の棚から手桶を卸して、それを持つて側の井戸端に出て、水を一
釣瓶汲
み込んで、それに桃の枝を投げ入れた。すべての動作がいかにも甲斐々々しい。使命を含んで來た御新造は、これならば弟の
よめにしても早速役に立つだらうと思つて、微笑を禁じ得なかつた。下駄を脱ぎ棄てゝ臺所にあがつたお豐さんは、壁に吊つ
てある竿の手拭で手を揩い
てゐる。其側へ御新造が摩り
寄つた。
「安井では仲平におよめを取ることになりました。」劈頭に御新造は主題を道
破し
た。
「まあ。どこから。」
「およめさんですか。」
「えゝ。」
「そのおよめさんは」と云ひさして、ぢつとお豐さんの顏を見つゝ、「あなた。」
お豐さんは驚き呆れた顏をして默つてゐたが、暫くすると、其顏に笑が湛へ
られた。「嘘でせう。」
「本當です。わたしそのお話をしに來ました。これからお母あ様に申し上げようと思つてゐます。」
お豐さんは手拭を放して、兩手をだらりと垂れて、御新造と向き合つて立つた。顏からは笑が消え失せた。「わたし仲平さんはえらい方だ
と思つてゐますが、御亭主にするのは厭でございます。」冷然として言ひ放つた。
お豐さんの拒絶が餘り簡明に發表せられたので、長倉の御新造は話の跡を繼ぐ餘地を見出すことが出來なかつた。併しこれ程の用事を帶びて來て、それを二人の娘の母親に
話さずにも歸られぬと思つて、直談判をして失敗した顛
末を、
川添の御新造にざつと言つて置いて、ギヤマンのコップに注いで出された白酒を飲んで、暇乞をした。
川添の御新造は仲平贔屓だつたので、ひどく此縁談の不調を惜んで、お豐にし
つかり言つて聞せて見たいから、安井家へは當人の輕率な返事を打ち明けずに置いてくれとョんだ。そこでお豐さんの返事を以て復命することだけは、一時見合
せようと、長倉の御新造が受け合つたが、どうもお豐さんが意を飜さうとは信ぜられないので、「どうぞ無理にお勸にならぬやうに」と言ひ殘して起つ
て出た。
長倉の御新造が川添の門を出て、道の二三丁も來たかと思ふ時、跡から川添に使はれてゐる下
男の
音吉が驅けて來た。急に話したい事があるから、御苦勞ながら引き返して貰ひたいと云ふ口上を持つて來たのである。
長倉の御新造は意外の思をした。どうもお豐さんがさう急に意を飜したとは信ぜられない。何の話であらうか。かう思
ひながら音吉と一しよに川添へ戻つて來た。
「お歸掛をわざわざお呼
戻い
たして済みません。實は存じ寄らぬ事が出來まして。」待ち構へてゐた川添の御新造が、戻つて來た客の座に著かぬうちに云つた。
「はい。」長倉の御新造は女主人の顏をまもつてゐる。
「あの仲平さんの御縁談の事でございますね。わたくしは願うてもない好い先だと存じますので、お豐を呼んで話をいたして見ましたが、矢
張まゐられぬと申します。さういたすとお佐代が姉に其話を聞きまして、わたくしの所へまゐつて、何か申しさうにいたして申さずにをりますのでございます。
なんだえと、わたくしが尋ねますと、安井さんへわたくしが參ることは出來ますまいかと申します。およめに往くと云ふことはどう云ふわけのものか、ろくに分
からずに申すかと存じまして、色々聞いて見ましたが、あちらで貰うてさへ下さるなら自分は往きたいと、きつぱり申すのでございます。いかにも差出がましい
事でございまして、あちらの思はくもいかゞとは存じますが、兎に角あなたに御相談申し上げたいと存じまして。」さも言ひにくさうな口
吻で
ある。
長倉の御新造は愈意外の思をした。父は此話をする時、「お佐代は若
過ぎる」と云つた。又「あまり別品でなあ」とも云つた。併しお佐代さんを嫌つてゐる
のでないことは、平生から分かつてゐる。多分父は吊
合を
考へて、年が行つ
てゐて、器量の十人竝なお豐さんをと望んだのであらう。それに若くて美しいお佐代さんが來れば、不足はあるまい。それにしても控
目で
無口なお佐代さんが好く
そんな事を母親に云つたものだ。これは兎に角父にも弟にも話して見て、出來る事なら、お佐代さんの望通にしたいものだと、長倉の御新造は思案してか
う云つた。「まあ、さうでございますか。父はお豐さんをと申したのでございますが、わたくしがちよつと考へて見ますに、お佐代さんでは惡いとは申さぬだら
うと存じます。早速あちらへまゐつて申して見ることにいたしませう。でもあの内氣なお佐代さんが、好くあなたに仰やつたものでございますね。」
「それでございます。わたくしも本當にびつくりいたしました。子供の思つてゐる事は何から何まで分かつてゐるやうに存じてゐましても、大
違で
ございます。お父う様にお話下さいますなら、當人を呼びまして、こゝで一應聞いて見ることにいたしませう。」かう云つて母親は妹娘を呼んだ。
お佐代はおそるおそる障子をあけてはひつた。
母親は云つた。「あの、さつきお前の云つた事だがね、仲平さんがお前のやうなものでも貰つて下さることになつたら、お前きつと往く
のだね。」
お佐代さんは耳まで赤くして、「はい」と云つて、下げてゐた頭を一層低く下げた。
長倉の御新造が意外だと思つたやうに、滄洲翁も意外だと思つた。併し一番意外だと思つたのは壻
殿の
仲平であつた。それは皆怪訝すると共に喜んだ人達であるが、近所の若い男達は
怪訝すると共に嫉んだ。そして口々に「岡の小町が猿の所へ往く」と噂した。そのうち噂はC武一郷に傳
播し
て、誰一人怪訝せぬものはなかつた。これは喜や嫉の交らぬ只の怪訝であつた。
婚禮は長倉夫婦の媒妁で、まだ桃の花の散らぬうちに済んだ。そしてこ
れまで只美しいとばかり云はれて、人形同様に思はれてゐたお佐代さんは、繭を破つて出た蛾の
やうに、その控目な、内氣な態度を脱
却し
て、多勢の若い書生達の出入する家で、天
晴地
步を占めた夫人になりおほせた。
十月に學問所の明教堂が落成して、安井家の祝筵に親戚故舊が寄り集まつた時には、美しくて、し
かもきつぱりした若夫人の前に、客の頭が自然に下がつた。人に揶揄はれる世間のよめさんとは全く趣を殊にしてゐたのである。
翌年仲平が三十、お佐代さんが十七で、長女須磨子が生れた。中一年置いた年の七月には、藩の學校が飫
肥に遷されることになつた。其次の年に、六十五になる滄洲翁
は飫肥の振コ堂の總裁にせられて、三十三になる仲平が其下で助教を勤めた。C武の家は隣にゐた弓削と云ふ人が住まふことになつて、安井家は飫肥の加茂に代
地を
貰つた。
仲平は三十五の時、藩主の供をして再び江戸に出て、翌年歸つた。これがお佐代さんが稍長い留守に空
閨を
守つた始である。
滄洲翁は中風で、六十九の時亡くなつた。仲平が二度目に江戸
から歸つた翌年である。
仲平は三十八の時三たび江戸に出で、二十五のお佐代さんが二度目の留守をした。翌年仲平は昌
平黌の斎
長に
なつた。次いで外櫻田の藩邸の方でも、仲平に大
番所番頭と
云ふ役を命じた。其次の年に、仲平は一旦歸國して、間もなく江戸へ移住することになつた。今度はいづれ江戸に居
所が極ま
つたら、お佐代さんをも呼び迎へると云ふ約束をした。藩の役を罷め
て、塾を開いて人に教へる決心をしてゐたのである。
此頃仲平の學殖は漸く世間に認められて、親友にも鹽
谷宕陰の
やうな立派な人が出來た。二人一しよに散步をすると、男振はどちらも惡くても、兎に角背の高い鹽谷が立派なので、「鹽
谷一丈雲横腰、安
井三尺草埋頭」
などと冷か
された。
江戸に出てゐても、質素な仲平は極端な簡易生活をしてゐた。歸新參で、昌平黌の塾に入る前には、千
駄谷に
ある藩の下邸にゐて、其後外櫻田の上
邸に
ゐたり、増上寺境内の金地院にゐたりしたが、いつも自
炊で
ある。さていよいよ移住と決心して出てからも、一時は千駄谷にゐたが、下邸に火事があつてから、始て五番町の賣
居を
二十九枚で買つた。
お佐代さんを呼び迎へたのは、五番町から上二番町の借家に引き越してゐた時である。所
謂三
計塾で、階下に三疊やら四疊半やらの間が二つ三つあつて、階上が斑竹山房の匾
額を
掛けた書斎である。斑竹山房とは江戸へ移住する時、本國田野村字假屋の虎
斑竹を
根こじにして來たからの名である。仲平は今年四十一、お佐代さんは二十八である。長女須磨子に次いで、二女美保子、三女登
梅子と、
女の子ばかり三人出來たが、假初の病のために、美保子が早く亡くなつたので、お佐代さん
は十一になる須磨子と、五つになる登梅子とを聨れて、三計塾に遣つて來た。
仲平夫婦は當時女中一人も使つてゐない。お佐代さんが飯炊をして、須磨子が買物に出る。須磨子の日
向訛が
商人に通ぜぬので、用が辯ぜずにすごすご歸ることが多い。
お佐代さんは形振に構はず働いてゐる。それでも「岡の小町」と云は
れた昔の俤はどこやらにある。此頃K木孫右衛門と云ふものが仲
平に逢ひに來た。素と飫
肥外浦の
漁師であつたが、物産學に精しいため、わざわざ召し出されて徒
士に
なつた男である。お佐代さんが茶を酌ん
で出して置いて、勝手へ下がつたのを見て狡獪なやうな、滑
稽な
やうな顏をして、孫右衛門が仲平に尋ねた。
「先生。只今のは御新造様でござりますか。」
「さやう。妻で。」恬然として仲平は答へた。
「はあ。御新造様は學問をなさりましたか。」
「いゝや。學問と云ふ程の事はしてをりませぬ。」
「して見ますと、御新造様の方が先生の學問以上の御見識でござりますな。」
「なぜ。」
「でもあれ程の美人でお出になつて、先生の夫人におなりなされた所を見ます
と。」
仲平は覺えず失笑した。そして孫右衛門の無遠慮なやうな世辭を面白がつて、得意の笊棋の相手をさせて歸した。
お佐代さんが國から出た年、仲平は小川町に移り、翌年又牛
込見附外の
家を買つた。値段は僅十兩である。八疊の間に床の間と廻
縁と
が付いてゐて、外に四疊半が一間、二疊が一間、それから板の間が少々ある。仲平は八疊の間に机を据ゑて、周圍に書物を山のやうに積んで讀んでゐる。此頃は靈
岸島の鹿
島屋C兵衛が
藏書を借り出して來るのである。一體仲平は博渉家でありながら、藏書癖はない。質素で濫
費を
せぬから、生計に困るやうな事はないが、十分に書物を買ふだけの金はない。書物は借りて覽て、
書き拔いては返してしまふ。大阪で篠崎の塾に通つたのも、篠崎に物を學ぶためではなくて、書物を借るためであつた。芝の金地院に下宿したのも、書庫をあさ
るためであつた。此年に三女登梅子が急病で死んで、四女歌子が生れた。
其次の年に藩主が奏者になられて、仲平に押合方と云ふ役を命ぜられたが、目が惡いと云つてこ
とわつた。薄暗い明りで本ばかり讀んでゐたので實際目が好くなかつたのである。
其又次の年に、仲平は麻布長坂裏通に移つた。牛込から古家を持つて來て建てさ
せたのである。それへ引き越すとすぐに仲平は松島まで觀風旅行をした。淺葱織色木綿の打
裂羽織に裁
附袴で、
腰に銀拵の大小を挿し、菅
笠を被り草鞋を穿く
と云ふ支度である。旅から歸ると、三十一になるお佐代さんが始て
男子を生んだ。後に「岡の小町」そつくりの美男になつて、今文尚書二十九篇で天下を治めようと云つた才子
の棟藏で
ある。惜いことには、二十二になつた年の夏、暴瀉で亡くなつた。
中一年置いて、仲平夫婦は一時上邸の長屋に入つてゐて、番町袖振坂に轉居した。その冬お佐代さんが三十三で二人目の男子謙助を生ん
だ。併し
乳が少いので、それを雜司谷の名
主方へ
里子に遣つた。謙助は成長してから父に似た異相の男になつたが、後日安東益斎と名告つて、東
金、
千葉の二箇所で醫業をして、旁漢學を教へてゐるうちに、持前の肝
積の
ために、千葉で自殺した。年は二十八であつた。墓は千葉町大日寺にある。
浦賀へ米艦が來て、天下多事の秋となつたのは、仲平が四十八、お佐代さんが三十五の時である。大
儒息
軒先
生として天下に名を知られた仲平は、ともすれば時勢の旋渦中に卷き込まれようとして纔に免れてゐた。
飫肥藩では仲平を相
談中と
云ふ役にした。仲平は海防策を獻じた。これは四十九の時である。五十四の時藤田東湖と交つて、水
戸景山公に
知られた。五十五の時ペルリが浦賀に來たために、攘夷封港論をした。此年藩政が氣に入らぬので辭
職した。併し相談中を罷め
られて、用人格と云ふものになつただけで、勤向は前の通であつた。五十七の時蝦
夷開
拓論をした。六十三の時藩主に願つて隱居した。井伊閣老が櫻田見附で遭難せられ、景山公が亡くなられた年である。
家は五十一の時隼町に移り、翌年火災に遭つ
て、燒殘の土藏や建具を賣り拂つて番町に移り、五十九の時麹
町善
國寺谷に
移つた。邊務を談ぜないと云ふ事を書いて二階に張り出したのは、番町にゐた時である。
お佐代さんは四十五の時に稍重
い病氣をして直つたが、五十の歳暮から又床に就いて、五十一になつた年の正月四日に亡
くなつた。夫仲平が六十四になつた年である。跡には男子に、短い運命を持つた棟藏と謙助との二人、女子に、秋元家の用人の倅田中鐵之助に嫁し
て不縁になり、次いで鹽谷の媒介で、肥
前國島
原産の志士中村貞太カ、假名北有馬太カに嫁し
た須磨子と、病身な四女歌子との二人が殘つた。須磨子は後の夫に獄中で死なれてから、お絲、小太カの二人の子を聨れて安井家に歸つた。歌子は母が亡くなつ
てから七箇月目に、二十三歳で跡を追つて亡くなつた。
お佐代さんはどう云ふ女であつたか。美しい肌に粗服を纏つて、質素な仲平に仕へつゝ一生を終つた。飫
肥吾田村字
星倉から二里許の小
布瀬に、同
宗の
安井林平と云ふ人があつて、其妻のお品さんが、お佐代さんの記念だと云つて、木綿縞の袷を一枚持つてゐる。恐らくはお佐代さんはめつたに絹
物などは著なかつたのだらう。
お佐代さんは夫に仕へて勞苦を辭せなかつた。そして其報酬には何物をも要求しなかつた。啻に
服飾の粗に甘んじたばかりではない。立派な第宅に居りたいとも云はず、結構な調度を使ひたいとも
云はず、旨い
物を食べたがりも、面白い物を見たがりもしなかつた。
お佐代さんが奢侈を解せぬ程おろかであつたとは、誰も信ずることが出
來ない。又物質的にも、精神的にも、何物をも希求せぬ程恬澹であつたとは、誰も信ずることが出來ない。お佐代
さんには慥か
に尋常でない望があつて、其望の前には一切の物が塵芥の如く卑しくなつてゐたのであらう。
お佐代さんは何を望んだか。世間の賢い人は夫の榮達を望んだのだと云つてしまふだらう。これを書くわたくしもそれを否定することは出
來ない。併し若し
商人が資本を卸し財利を謀るやうに、お佐代さんが勞苦と忍耐とを夫に提供して、
まだ報酬を得ぬうちに亡くなつたのだと云ふなら、わたくしは不敏にしてそれに同意することが出來ない。
お佐代さんは必ずや未來に何物をか望んでゐただらう。そして瞑目するまで、美しい目の視線は遠い、遠い所に注がれ
てゐて、或は自分の死を不幸だと感ずる餘裕をも有せなかつたのではあるまいか。其望の對象をば、或は何物ともしかと辯識してゐなかつたのではあるまいか。
お佐代さんが亡くなつてから六箇月目に、仲平は六十四で江戸城に召された。又二箇月目にコ川將軍に謁
見し
て、用人席にせられ、翌年兩番上席にせられた。仲平が直參になつたので、藩では謙助を召し出した。次いで謙
助も昌平黌出役になつたので、藩の名跡は安政四年に中村が須磨子に生ませた長女絲に、高
橋圭三カといふ壻を取つて立てた。併し此夫婦は早く亡くなつた。後に須
磨子の生んだ小太カが繼いだのは此家である。仲平は六十六で陸奥塙六萬三千九百石の代官にせられたが、病氣を申し
立てゝ赴任せずに、小
普請入を
した。
住ひは六十五の時下谷徒士町に移り、六十七の時一時藩の上
邸に
入つてゐて、麹町一丁目半藏門外の壕端の家を買つて移つた。策士雲井龍雄と月見をした海
嶽樓は、
此家の二階である。
幕府滅亡の餘波で、江戸の騒がしかつた年に、仲平は七十で表向隱居した。間もなく海嶽樓は類燒したので、暫く
藩の上邸や下邸に入つてゐて、市中の騒がしい最中に、王子在領家村の農高橋善兵衛が弟政吉の家に潛んだ。須磨子は三年前に飫
肥へ
往つたので、仲平の隱家へは天野家から來た謙助の妻淑
子と、
前年八月に淑子の生んだ千菊とが附いて來た。産後體の惡かつた淑子は、隱家に
來てから六箇月目に、十九で亡くなった。下總にゐた夫には逢はずに死んだのである。
仲平は隱家に冬までゐて、彦根藩の代々木邸に移つた。これは左傳輯釋を彦根藩で出版してくれた縁故からであ
る。翌年七十一で舊藩の櫻田邸に移り、七十三の時又土手三番町に移つた。
仲平の亡くなつたのは、七十八の年の九月二十三日である。謙助と淑子との間に出來た、十歳の孫千菊が家を繼いだ。千菊の夭
折し
た跡は小太カの二男三カが立てた。
附録
一、事實
明和四年丁亥九月三日安
井完生。日
下部姓。字子全。號
滄洲。
家在日向國宮崎郡C武村中野。
寛政八年朝淳生。字子
樸。
又士禮。通稱文治。號C渓。
十一年己未衡生於C武村今泉岡川添氏之家。字仲平。以
字稱。
初號C瀧。中足軒。後息軒。又號半
九陳人。葵
心子。
文化元年甲子完至江戸。師事古屋昔
陽。
訪皆川淇園于京都。
三年丙寅四月完歸郷。
四年丁卯完
爲藩治水使。
九年壬申川添氏佐代生。
十年癸酉完爲教授。
文政元年戊寅槇生。槇
非安井氏血族。
後千菊夭折。槇權爲戸主。
二年己卯衡至大阪。入篠崎小竹門。
四年辛巳朝淳歿。葬于C武村文榮寺。衡歸郷。
七年甲申完
兼料兵使。
衡往江戸。入古賀侗庵門。次入昌平黌。
九年丙戌衡爲侍讀。
十年丁亥衡歸郷。中野明教堂成。
十一年戊子須磨生。
天保二年辛卯飫
肥振
コ堂成。完爲總裁兼教授。衡助教。安井氏徒飫肥加茂。
三年壬辰飫肥安國寺安井氏祖先墓成。
四年癸巳衡至江戸。居
外櫻田邸。
五年甲午衡歸郷。
六年乙未七月二十一日完
卒。
年六十九。葬于飫肥太平山。是年登梅生。
七年丙申衡至江戸。居千駄谷邸。
八年丁酉衡入昌平黌。爲
斎長。
爲藩大番所番頭。後移外櫻田邸。又僦居芝金
地院。
九年戊戌衡歸郷。次
徒江戸。
居千駄谷邸。冬移五番町。
十年己亥居上二番町。次移小川町。
十一年庚子五月八日登梅夭。僅六歳。葬于高輪東禪寺。衡移牛
籠門
外。是年歌生。
十二年辛丑衡
任押合方。以
病辭。
十三年壬寅移麻布長坂裏通。夏北遊。八月十九日朝
隆生。字
棟卿。
通稱棟藏。
弘化元年甲辰衡居外櫻田邸。次移番町袖振坂。十一月十日敏雄
生。後名利雄。又益。通稱謙吉。又謙助。號默
斎。
四年丁未衡爲相談中。
嘉永二年己酉移隼町。
三年庚戌移番町。
五年壬子須磨嫁田中氏。後再嫁中村氏。
六年癸丑衡罷相談中。爲用人格。
安政四年丁巳絲生。是年移善國寺谷。
五年戊午小太カ生。名朝康。號樸
堂。
萬延元年庚申請
藩致仕。
文久元年辛酉罷用人格。
二年壬戌正月四日佐代卒。年五十一。葬于東禪寺。七月
二十日衡被幕府召。八月四日歌歿。年二十三。九月十五日衡謁
將軍。二十六日列用人席。
三年癸亥二月一日衡爲兩番上席。移下谷徒
士町。
六月十九日朝隆歿。年二十二。葬于駒籠龍光寺。
元治元年甲子二月十日衡任陸
奥塙代
官。八月以病辭。
慶應元年乙丑居外櫻田邸。次移半藏門外。九月須磨赴飫肥。居
C武村大久保平山。
三年丁卯七月飫肥太平山碑成。八月千菊生。
明治元年戊辰二月十七日衡請幕府致仕。居外櫻田邸。次移千
駄谷邸。三月十三日徒足立郡領家村。四月謙助寓比企郡番匠村醫小室元長家。七月至下
總國東金。
九月二十二日天野氏淑歿。年十九。葬于龍光寺。十一月徒代々木彦根藩邸。
二年己巳八月居外櫻田邸。
四年辛未七月二日謙助自殺于下總。九月衡移土手三番
町。
九年丙子九月二十三日衡卒。年七十八。葬于駒籠養源寺。
右參取若山甲藏君息軒傳。現存金石文。安井小太カ君竝依知川敦君書信。
二、東京竝其附近遺蹟
駒籠養源寺。有安井息軒先生碑。明治十一年九月川田剛撰文。日下部東作書。
有安井須磨子墓。明治十二年五月十九日享年五十一歳。
有安井千菊墓。明治十六年一月一日享年十八歳。
有安井槇子墓。明治二十一年十月六日享年七十一歳。
有安井健一カ墓。明治二十四年九月二日。
駒籠龍光寺。有安井朝淳之墓。文久三年六月十九日歿。享年二十有一。昌平黌教授安井衡誌。三
浦汝檝書。
有安井孺人天野墓。明治戊辰九月二十二日殘。享年十九歳。
安井謙助妻。
右大正三年三月一日往訪。
高輪東禪寺。有雪峰妙觀大姉墓。飫肥安井仲平妻川添氏佐代。享年五十一。文久二年壬戌正月四日。
有桂月妙輝信女墓。飫肥安井仲平第四女歌。享年二十三。文久二壬戌年八月四日。
有玉影善童女墓。日州飫肥安井仲平第三女。俗名登梅。享年六歳。天保十一庚
子年
五月八日。
右大正三年三月七日往訪。
下總國千葉町大日寺。有安井敏雄墓。明治四年辛未七月三日歿于下總千葉僑
居。
息軒安井衡誌。
右大正三年四月二十八日。依知川敦君往訪。
Mori Ogai
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on Jun 13, 2003