●「いま、戦争と平和を考える」 (第3回)
日本ペンクラブ緊急集会
2004年2月6日(金) 日本プレスセンターホール(内幸町 日本プレスセンタービル10F)
04年2月6日(金)に、日本プレスセンターで開催した「いま、戦争と平和を考える」緊急集会から、井上ひさし会長の「開会挨拶」と浅田次郎、加賀乙彦両理事のミニ講演の記録を掲載します。
[開会あいさつ]
井上 ひさし 「なぜ日本ペンクラブは戦争に反対か」
皆様ありがとうございます。これほどたくさんいらっしゃるとはわたしは思っていませんでしたが、ペンクラブの中では、今日はたくさん入るという予測を立てたかたもいらっしゃいまして、そちらのほうが今日は勝ちました。
何しろ秒刻みで会が進行しますので、私の持ち時間は10分間です。尻切れとんぼになるかもしれませんが。
「ブッシュ・ドクトリン」というものがあります。ドクトリンというのは、基本政策とか、あるいはもっと日本人に近い言葉で言うと教書ということになります。ブッシュさんはいつ大統領になったか分からない選挙で選ばれてきて、そこにいろいろな裏話もあるようですが、ブッシュさんと彼のスタッフが、大統領になった以上わたしたちはこういう方針でこの大きな国を運営していくという基本政策を決めたわけです。これは皆様もご存じのように、大きく分けると六つあります。いちいち読んでいるのは時間の不経済ですので、ブッシュ・ドクトリンの骨格を六つに分けて皆様にまず知っていただきたい。ご存じのかたは聞き流していただきたいのですが。
まず1番めは、テロリストのみならず、テロ支援国家も軍事攻撃の対象と見なす。そして、ある国がテロリズムを支援しているか否かの判定はアメリカが下すというのがまずブッシュ・ドクトリンの最初の柱です。つまり、客観的にこの国はテロ支援国家だということではなくて、アメリカが判定を下すとそれがテロ支援国家であるということです。
2番めは、これは僕が極端に悪意の意訳をしていますので原文とは多少違いますが意味は同じです。我々は善悪二元論的な世界認識に立つということです。つまり、この世界にはいいものと悪いものがいる。ハリウッド映画のシナリオのようですね。そしてアメリカは常にいいほうである。これは相当意地悪く意訳していますからあるいは不正確かもしれませんが、世界には悪者がいる。その悪者との十字軍的な戦いがアメリカの務めであると。
3番めは、伝統的な抑止概念ではテロリストを効果的に攻撃できない。そこで我々は先制攻撃をするというものです。
4番めは、我々は単独主義でいく。NATOや国連のような国の主権を超えたところにある国際機関をあてにしない。自分たちは力があるので単独主義でいく。つまり、京都議定書はアメリカにとっては都合が悪いので離脱する。国際刑事裁判所はテロリストを取り締まるために作られた国際機関で、アメリカは署名までしていますが、それも一方的に廃棄する。自分が裁判所になるのだということです。
5番めは、相当意地悪いまとめ方ですが、アメリカの敵に対しては変な気を起こさせない。そういう原文ではありませんが、まとめますと、変な気を起こさせないというのが5番めです。
6番めは、これがとても大事です。人道的な利益や国際社会の利益ではなく、アメリカの国益をあくまでも外交の基準とするというのが6番めです。
今、1〜6番まで申し上げましたが、これがブッシュ・ドクトリンの骨格です。つまり、アメリカは神から世界を統べていく力を授かっている。我々は間違いを犯さないので、我々と違うのは全部間違いである。それを叩くということです。しかも圧倒的な力があります。しかし、このことを常に表現しないといけませんから、小さなところを見つけてはそこを徹底的に叩くわけです。今、フランスからトッドという社会学者が来ていろいろなところで講演をしていらっしゃいますが、そのかたも、アメリカは自分の力を常に誇示しないと単独主義をやっていけないので、大きいところは別にして、小さいところをテロ支援国家に全部指名して、そこを最新の兵器で叩きながらアメリカ自身の力を見せていくという展開になっているわけです。それに対して日本政府は、昔からずっとそうですが、アメリカのブッシュ・ドクトリンを完全に支援していくことになるわけです。
そこで、わたしたちのこの会は、日本は日本の生き方があるはずである。アメリカだけが国際社会ではなくて、日本人がたくさんいろいろなところへ行っていますし、日本の製品があちこちに行っていますし、いろいろなところから物を買っていますし、アメリカとの関係はある意味では特別ですが、しかし国際社会はアメリカだけではない。小泉さんはアメリカしか国際社会がないような感じですが。ですから、わたしたちがこういう集会で一生懸命考えて、やはり日本には日本の生きる道、取るべき道があるのではないかということを皆さんと一緒に考えるための集会です。
最後に、これは加賀先生が専門ですが、フランクという精神科のお医者さんが、これはナチの強制収容所をずっと調べていらっしゃったかただと思いますが、「人間には、ガスで処刑することを考える人間もいる。しかしその処刑場へ人の身代わりに立って朗らかに歌を歌いながら入っていく人もいる」と。つまり、人間にはたくさんいて、そういうひどいことを考える人と、そこへ人の身代わりになって入っていく人間がいる。これはわたしの個人的な考えも多少入っていますが、身代わりに立って口笛を吹きながら堂々とだれかの作った地獄へ入っていく。恐ろしい結論になりましたが、そういうつもりでおります。
よろしくご支援をいただいて、これから続々いろいろなかたが壇上に上がりますが、その皆さんのお話をよくお聞きになって、そして帰るころにはここである一つの大きな意思が固まってくると素晴らしいというふうに期待して祈っています。どうもありがとうございました。
[ミニ講演]
浅田 次郎 「イラクへの自衛隊派遣に思うこと」
こんばんは。元自衛官の浅田次郎です。その経歴上、今回のミニ講演をやることになりました。
困ったことに、あさって自衛隊のOB会があります。わたしの自衛隊時代の原隊、兵隊としての戸籍ですが、第1師団麾下の第32連隊というところで、かつては東京の市ヶ谷に駐屯しておりました。防衛庁が引っ越してきたので大宮に引っ越してしまいましたが、東京のど真ん中にあった唯一の部隊で、昔で言えば近衛歩兵連隊というわけで精鋭が集っておりました。こういう話をしても、自衛隊は市民権がないからぴんと来ないでしょう。だからそのとおりに申し上げます。
ですから、大変優秀な人材がその部隊にはおりました。現在、陸上幕僚長をなさっている先崎陸将は、わたしがその部隊にいた当時の運用訓練幹部、防衛大学出身のばりばりの青年将校でありました。わたしも小説家などという変わった職業になることができたので、あさっての原隊のOB会、隊友会には、いい扱いでいい席に座らせてもらえると思うのですが、そうすると恐らく隣は陸幕長でありまして、そのときどのような対話を二人でするのかと思うとちょっと背筋が寒くなる思いがいたします。ただし、今日は思ったことを遠慮なく申し上げます。
わたしは先ほど「元自衛官」という言い方をしましたが、実は「元軍人」などという言い方は世界的にはあまりありません。これは侮辱的な言い方です。しかし自衛隊に関しては「元自衛官」という呼称をするほかはありません。まさか退役軍人とは言えません。でも国際的にいえば、わたしは自分では退役軍人だと思っておりますし、そういう誇りを持って今も暮らしております。したがって、自分の書いた甘ったるい小説の読者が私のプロフィールを見たときに真っ先に出てくる「陸上自衛隊出身」というものを見たらさぞかし興ざめだとは思うのですが、自分の過去は偽るつもりなどはありませんし、自分の人生にはそれなりの誇りを持っておりますので、わたしはどの本にも、後ろにはまず真っ先に「1951年生まれ、陸上自衛隊を経て」と書くようにしております。
近ごろはつまらない政治家も大勢いるらしくて、行ってもいない、卒業してもいない大学の学歴を公然と称する人がいるらしくて、ほかにもいっぱいいるらしいのですが、恐らく青春時代にろくなことをしていなかったのでしょう。わたしは大学も行っておりませんが、自衛隊というのは素晴らしい学歴であると思っておりますのでいまだに語っております。
したがって、このような席で語るときに、実はわたしは第三者としてあまり冷静に話すことができないのです。ご年配のかたは、旧軍隊の経験のあるかたはお分かりになるかと思いますが、兵隊というのは辞めても兵隊なのです。一生、そういう感じがするのです。もちろん、過去のつながり、友人たちとのつながりも強いですし、自分が若い時分に経験したことは身に染みておりますので、今の自衛隊の毎日の報道はどうも人ごとには思えない。
マスコミはこぞって、雪の中から妻子の涙に送られて出ていく自衛官の姿を映していますが、何となくかわいそうです。しかしよく考えてみましょう。古今東西、出動に当たって国民から気の毒がられて出陣していった兵隊というものが果たしてあるでしょうか。かつて日本が大陸に向かって行ったときでも、国民の多くは疑問を持っていたと思います。それでもいざ送り出すときには兵隊は歓呼の声に送られて出ていったわけです。こんな惨めな話はないと思います。
自衛官というのはいいことなど一つもなかった。考えてみてください。50〜60年もの歴史があって、それでも国家の鬼っ子です。いいことなど一つもなく、誇らしいことなど何一つもなく、あげくの果ては他国の要請によって訳の分からぬ場所に連れていかれる。イラクのバスラというところは世界最高気温を記録したことのある所です。旭川の零下20度の中で訓練をしている兵隊を、そんなところに連れていって何をしろというのですか。
こういうふうにわたしが自分たちの後輩のことを自分の心の中で気の毒がっているのも彼らに対して申し訳ない。でも、こういう状況を作った国家はやはりおかしいのです。
小泉さんは、11月か12月の国会答弁で、「だって軍隊でしょう」とぽろっと言いました。あれはわたしはショックでした。50〜60年もの間、確かに軍人でありながら、軍人であると称することのできなかった人たちが現役で25万人もいます。OBを入れると百何十万人いるのではないでしょうか。その人たちが果たしてどのような思いであの一言を聞いたか。50〜60年の臥薪嘗胆を「いや、ご苦労さん」と一言で片付けられたような気がしたのです。あんな簡単に物事を言うのは僕は不見識だと思います。あげくの果てに、他国の要請によって訳の分からぬ戦に駆り出され、死ねば殉職ですか。これは侮辱ですよ。
イラクへ行くのに自衛官の志願者が多かったと聞きますが、あの気持ちはわたしはよく分かります。なぜかというと、50〜60年、ずっと訓練だけしてきたのです。それが、どのようなことであれとりあえず仕事らしいものが来た。これはやはり行きたいです。一部では、随分大きなお金が支給されるといううわさもありますが、そんなことは恐らく関係ないでしょう。もしわたしが現役の第2師団の隊員であっても恐らく手を挙げました。熱望したと思います。そういうものです。
そういう自衛隊の真相、真実は、国民の皆様には伝わらないでしょうから、置いていかれる妻子の映像だけをテレビは映して、気の毒がられる自衛隊像を作り上げてしまうのです。悲しいことであると思います。
そもそも軍隊の本義とは何なのでしょうか。アメリカがどのようなことを考えているか分かりませんが、軍隊というのは自国の国民の生命と自国の国民の平和な生活を守るために存在する武力であると。これは日本国憲法に言われるまでもなく、軍隊というものの古今東西の本義であるとわたしは思います。この本義を踏み越えた軍隊は、いかなる理由があれ誤っていると思います。昔の古い歴史でも、ローマ帝国でもジンギスカンでも、やってはいけない戦をしているに決まっています。
これが軍隊の本義であるとすると、現在、妙な歴史の結果、日本の国内に外国の軍隊が駐屯しているというこの事実がまずとてもおかしいことなのでありますが、もし外国の軍隊の力を借りなければ自国の安全が保障されないという程度の国なのでしたら、何ゆえその自国のわずかな軍隊を割いて見知らぬ国に連れていくのでしょうか。これは大変不思議なことであると思います。
その本義に照らし合わせてみれば、国際貢献も復興支援も軍隊としてはイレギュラーな活動であるということをもう一度認識しなければいけないと思います。国防的には確かに北朝鮮という脅威はあります。そういう脅威があるのに、北朝鮮に対する哨戒能力が最もあるイージス艦をどうしてイラクに出すのでしょうか。わたしは、何も考えていないのではないかとしか思えません。
昨日か一昨日ですか、突然、アメリカの国防長官が、「大量破壊兵器はなかったかもしれない」と言いました。それでは済まないでしょう。もしもそういう発言が、「もしも」というただし書きつきでも、アメリカの高官の口から発せられたのであれば、その時点で自衛隊を出すのは停止するのが常識であると思います。
もし、大量破壊兵器がなくて、それが誤解である、最初からなかったものであるとしたら、あのイラクとの戦争はアメリカが一方的に起こした侵略戦争であると言われてもしかたがない。たとえ間違いであっても「間違った」では済まされません。どのくらいの人が死んだか発表もされていないから分かりもしないのですが、何でアメリカ人の犠牲者だけが発表されてイラクの犠牲者が発表されないのかというのはおかしな話です。人の命は同じです。そんな訳の分からない戦であります。
もう一つ、アメリカは「テロ」、日本のメディアも「テロ」と言います。テロによってこれだけの犠牲者がイラクで出ているというような言い方をします。テロというのは、アメリカが一方的に戦争の終結宣言をしたので、戦は終わったから「テロ」だと言うわけです。ところが、イラクはゲリラ戦とはいえ、ロケット弾を持ってヘリコプターを撃ち落とすような戦闘をしています。これは軍隊の常識で言えばゲリラではありません。組織的戦闘能力があると考えるべきです。したがってイラクは戦場です。戦場に安全な地点であるとか危険な地点というのはないと思います。
つまり、アメリカの論理によって、戦争は終結したのだからその後の復興支援に行くという論理になるわけで、これは通用しないというのは恐らく自衛官がいちばん知っているでありましょう。その彼らに、いまだに、撃つまで撃ち返すなとか、撃ってきたら撃ち返してよいとか、緊急避難だの正当防衛だのと、そんなことを押しつけるのはいかがなものかと思います。もうここまで来るとシビリアンコントロールの暴力だと思います。自衛官もばかではないのでいろいろなことを考えています。わたしは、戦争を恐れるよりも自衛隊のクーデターを恐れたほうがいいのではないかと思います。お笑いになりますが、そのぐらいわたしたちは、長い間、自衛隊生活の中で身に染みて惨めさを味わってきておりますから、どこでどう爆発してもちっとも不思議ではないと思うのです。
僕が自衛隊に志願した昭和46年は、自衛官の2等陸士の給料が1万5100円です。何だかんだ引かれて手取りが九千円ぐらいでした。その当時の世の中は、今から三十何年前とはいっても、アルバイトの日当が3000〜4000円はもらえた時代です。そのときに1万5100円の給料で志願をした隊員がいたのです。しかも、こういう思い出話をすると胸がいっぱいになるのですが、当時は同じ年頃の青年たちは学生運動の真っ最中で、市ヶ谷にも通学生がいました。夜間の大学や定時制の高校に通っている隊員が大勢いたのです。
あるとき、ゲバ棒を持った学生たちにつるし上げられて、殴られて、顔じゅう真っ青な赤たん青たんを作って部隊に帰ってきた。そのときに当直陸曹に詰問されて、彼はえらかったです。「市ヶ谷駅から走ってきたら左内坂で転びました」と言いました。わたしはそのときちょうど当直士長という週番に上番していましたので、彼にこっそり聞いてみました。聞いたことはただ一つ「おまえ、殴り返さなかったろうな」ということでした。自衛官は徒手格闘術という殴り合いの訓練はしていますので、ゲバ棒の学生に4〜5人から殴りかけられても殴り返せると思います。でも、殴り返したら事件になると思ったからそれが心配だったので聞きました。そしたら「殴ってません」と言いました。彼はそのとき学生たちから「自己反省しろ」と迫られたのだそうです。しかし、「自己反省」と言われても、何が自己反省なのか分からなかったので何も言えなかった。何も言わなかったら殴られたと答えました。
自衛隊の歴史というのはそういうものです。こういう歴史を持った50〜60年の若者たちの歴史です。これに対して、いまさらアメリカが何かを言ったから、それに対して人を出して、それで死ねば殉職ですか。あまりにも人権無視というか、人をばかにした話ではないでしょうか。
まことに個人的な見地からものを申し上げておりますが、わたしは自分の血脈を持った後輩たちが今そのような立場に立たされているのかと思うと悔しくてなりません。気の毒だというより悔しくてなりません。わたしは2年間の自衛官を務め、最後に自分の2年間使用しておりました64式小銃を今までにもなくきれいに手入れをして武器庫に返納いたしました。その返納したときに考えたことは、この銃は次にだれが使うのだろうなということです。武器は新しいものに変わりましたが、その銃は、わたしの後に新しく入った2等陸士が使い、その後また使い、長い間大事にされていたと思います。自衛官の血脈というのはそういうものであります。同じ訓練をし、同じような苦労をした後輩たちが、今イラクに行くに当たって、身の危険、命の危険ではないです。どんな思いで行くのかというのを考えると、わたしはいても立ってもいられない気持ちであります。
何だか知らないけれども、自衛隊の話がどんどん進んでいくほどに、大反対だったものが、その声が少しずつ衰えて、しょうがないじゃないかという空気が漂ってきているような気がします。日本人の国民性であると思います。既成事実に弱いのです。行っちゃったんだからしょうがないじゃないかとか、今までこうだったんだからしょうがないじゃないかとか、これはいけないことだと思います。そういうふうになおざりにしてきたから、自衛隊は今までずっと何だか訳の分からぬまま、鬼っ子のまま続いてきてしまったわけで、結果、このような惨めな目に遭っているわけです。
ですから、現実と真実は違うということを国民の一人一人が認識するべきだと思います。現実は確かに行ってしまった。アメリカの言うなりになってしまった。しかし真実はどうであろう。本当はどうなのだということを我々は忘れてはいけないと思う。
わたしは自衛官でありましたが、全くの反戦主義者です。半世紀以上にもわたり、敵に向かって引き金を引いたことのない自衛隊というものに誇りを持っています。これからも誇りは持ち続けるべきであります。それでこその軍隊の本義であろうと思います。そういうことをすべてしんしゃくしたうえで、小泉さんにも「自衛隊は軍隊である」と言ってほしかったが、そこまでのお考えは恐らくないでしょう。あんなふうに簡単には言ってほしくなかったとしみじみ思います。
ともかく、そういうことで、戦争をしてはいけないことは当たり前なのだから、軍隊を国の外に出してはいけないのは当たり前のことなのだから、これはやはり皆さんで反対をしていきましょう。どうもありがとうございました。
加賀 乙彦 「戦争と文学・なぜ私は反戦文学を書くのか」
加賀乙彦です。今、皆さんのお話を聞いていて、いろいろな思いがわたしの心の中に去来いたしますが、いよいよ日本も、はっきり言って戦争を始めたなという時期が今だと思います。
日本は自衛隊を派遣して、どこに行ったかというと米軍のキャンプに行ったのです。米軍の出迎えを受けてこれからいよいよサマワというところに行くそうですが、そういう具合に、米軍と同じような活動は明らかで、そのことがわたしには非常に残念に思います。航空自衛隊の人たちが小牧飛行場から飛んでいくときに、あそこに残っている人たちが一列になって手を振って見送っていた。あの小牧飛行場は昔、陸軍春日井飛行場といって、特攻機があそこから出撃した場所です。わたしは、戦争中、名古屋陸軍幼年学校にいましたので、特攻隊が出るたびに何人か見送りに駆り出されてあの飛行場に行って、やはり一列に並んで、これから死んでいく特攻機の若者たちを手を振って見送った。その光景が重なってきました。
戦争では、いつも殺されるのは若者で、一将功成って万骨枯れるというのはまさに名言で、ブッシュはじめ、日本のえらいかたがたもみんな年寄りで、その年寄りの命令によって若い人たちが出陣をする姿を見て、わたしは涙がにじんでいく思いでした。
日本はどうしてアメリカと一緒に戦争をしなくてはならないのかということを、実はわたしはずっと小説に書いてまいりました。例えば、昭和16年のルーズベルトと来栖大使と野村大使の日米交渉の話を『錨のない船』という小説の中で書いています。そのときに、アメリカ各地を旅行して取材をしましたとき、デイトンというところに空軍博物館があります。そこに、長崎に爆弾を落としたB29のボックスカーが保存されています。この前、スミソニアンの航空宇宙博物館に、広島に原爆を落としたエノラ・ゲイが展示されているというので、平和運動家たちが抗議して、どうして被害の実情を展示しないのかと言って門前払いを食ったということが報道されましたが、その前から、戦後50年間、デイトンの空軍博物館にはボックスカーが展示されているのです。そして、その展示されているそばに原爆の実物大の模型が二つ置いてあります。25セントを入れると映像が表れて、その映像は、原爆を作る苦心とともに、広島・長崎に原爆を落としたときのきのこ雲の写真が出てまいります。これはビデオで出てきます。
ちょうどわたしが行っていたときに、小学生の一団が先生に連れてこられて、わたしはあまり英語はよく分からないのですが、聞き耳を立てると、これはアメリカの世界に誇るべき原爆を二度めに長崎に落としたボックスカーという爆撃機で、今からその原爆の場面を見ましょうというので、30人ぐらいの小学生がその原爆のシーンを見て、そしていよいよ長崎の空にきのこ雲が出たときに、驚いたことに小学生たちは拍手しました。それがアメリカの教育なのでしょうね。わたしはあのときほどびっくり仰天したことはありませんので、その光景はいまだに目に焼きついております。世界最大の大量破壊兵器、原子爆弾を作り出したのはアメリカ人であって、アメリカ人はそのことに罪の意識を持っているのではなくて誇りに思っているのだということがよく分かりました。
わたしの今書いている『雲の都』という小説の中に原爆のことが出てくるのですが、主人公が広島・長崎の病院を訪ねる。その病院はアメリカの資金によってまかなわれたもので、何のためにその病院をアメリカが建てたかというと、原子爆弾で被害を受けた人々を治療するためももちろんあるのですが、観察するためなのです。どのような被害を人間に与えるかというこよなき実験台に日本人がさせられて、それは今も続いています。まだ生存しているかたが病院に入っておられて、原爆手帳を持っていらっしゃる広島市民・長崎市民のかたにわたしもお会いしたことがあります。
あの原子爆弾で、あるいはあの戦争で、日本人は350万人ぐらい殺されました。それは何のためだったかというと、アメリカ人を真珠湾で2800人殺した。3000人にいかない。ちょうど9.11のときの被害者の数ぐらいの人間を殺した。それでアメリカは一丸となって敵を討つ、日本人を撲滅するという戦争を起こしたわけです。
その戦争を起こした事情は、『錨のない船』という作品の中で随分詳しく書きました。これは英語に訳されてかなり売れたものですから、随分いろいろなアメリカ人のかたから手紙を頂きました。その中で半分以上が抗議の手紙です。日本はもっとひどかったのだと。要するに、宣戦布告なしにいきなり真珠湾を攻撃したのだと。実は、宣戦布告前に日本はアメリカにそれを通告することを来栖・野村両大使は命じられて、そのための準備もちゃんとしていたのですが、暗号解読器がうまく作動しなかった。ところがアメリカのほうは宣戦布告を日本がすることをすでに知っていて、ほとんどわざとあの真珠湾攻撃を日本にさせて、そしていっぺんにアメリカの世論を反日、「リメンバー・パールハーバー」というふうに持っていった。そういう国でありました。
わたしは、戦争が終わったときに16歳で、陸軍幼年学校の3年生で、陸軍幼年学校というのは中学でいえば中学4年生ぐらいの子供ですが、一応、兵長の位をもらって、わずかですが給料ももらっていた。ですから戦争が終わったときに復員してきたのです。
その復員してきたときから戦後教育を受けているわけですが、そのときのことをわたしは『帰らざる夏』という小説で書きましたが、わずか一日で日本人は、軍国主義者が平和主義者に変わったのです。わずか一日で。
8月15日の天皇の放送の翌日には、もう日本は平和でなくてはならないと。「民主主義」という言葉を聞いたのは一月たってからで、ありとあらゆる新聞・ラジオ、すべてが「これからは民主主義の時代だ」ということになって人間はころりと変わった。つまり、日本人は何か事があるとあっという間に正反対の方向に行く国民であるということを、わたしは16歳の少年のときにつくづくと身に染みて思いました。そして、その一月の間に陸軍も海軍もすべてなくなってしまった。聖戦の思想まで崩壊した。
今度、わたしが恐れているのは、イラクに自衛隊を派遣するという行為によって、日本人の心の中に眠っていた好戦的な気持ちが呼び覚まされて、これは正義の戦いであるから正しいのだ、彼らの無事を祈って送り出そうではないかというふうに。もちろん無事を祈るのはかまいませんが、しかし正義の戦いに行くから送り出そうではないかというふうに、180度回転しかねない空気が、今、日本の中にあります。これは日本人の心の中にもありますし新聞報道の中にもあります。そのことをわたしは最も恐れます。
特に新聞報道が、自衛隊の行動をまるで賛美するかのような報道を次から次へと今行っていますが、しかしあの報道のしかたで、結局得をするのはアメリカです。アメリカは、日本が参戦してくれたと思って喜んでいるでありましょう。
そのような在り方は戦争が終わったときの新聞の在り方と全く同じで、8月15日までは戦争戦争、聖戦完遂という言葉があって、8月16日にはあっという間に平和になって、一月後には民主主義になって、そういう移り変わりをわたしは見てまいりました。
今、日本ペンは、何度も何度も反戦集会を開いてまいりましたが、今いちばん開きたい。今危ない。つまり、日本人が戦争の空気にたぶらかされて、戦争をすることが大事なことだ、平和を守ることだ、国際貢献をすることだと思い込まされてしまう。そのことが実に怖い。わたしは自分自身の経験から言って、そして自分自身がそのことをずっと小説に書いてきた経験から言って、同じようなことを日本人は繰り返しそうに思います。
あと2分ですが、これだけ申し上げたい。
今度の日米同盟が始まったのは、1951年、サンフランシスコの平和条約のときです。そして、日米安保条約が締結されました。日本はアメリカの同盟国になったのですが、この日米安保条約は10年ごとに相互の国々が討議して、継続してもいいし断ち切ってもいい。わたしは、どうしてそれが断ち切れなかったのか実に不思議に思います。60年安保、70年安保であれほど安保反対を叫んだ青年たちが、80年になると沈黙し、90年、2000年とずっと沈黙し、沈黙している間に日本はだんだんにアメリカの戦争に取り込まれていく。それが今の赤裸々な状況ではないでしょうか。わたしはそういう意味で、今度の自衛隊のイラク派遣には反対です。
日本ペンクラブ緊急集会
「いま、戦争と平和を考える」
日 時 2004年2月6日(金)18時開場・18時15分開演・20時45分終了
会 場 本プレスセンターホール(内幸町 日本プレスセンタービル10F)
内 容
開会あいさつ 井上ひさし(日本ペンクラブ会長)「なぜ日本ペンクラブは戦争に反対か」
ミニ講演 浅田次郎(日本ペンクラブ理事)「イラクへの自衛隊派遣に思うこと」
フォト&トーク 森住 卓(フォト・ジャーナリスト)「イラクの子供たちはいま」
対談 江川紹子(日本ペンクラブ会員)/森住 卓「イラク戦争の爪跡を歩いて」
声明の発表と公開記者会見
井上ひさし・下重暁子・中西 進・阿刀田高・新井 満・米原万里・高橋千劔破・吉岡 忍
進行:松本侑子(日本ペンクラブ理事・広報室長)
閉会あいさつ 阿刀田高(日本ペンクラブ専務理事) 「平和への願いをこめて」
総合司会 高橋千劔破(日本ペンクラブ常務理事)


