活動記録・レポート

第5回国際ペンWiP(ライターズ・イン・プリズン)会議(バルセロナ)報告

2004年5月17日〜21日
バルセロナ(スペイン)

 国際ペンWiP会議は、1996年から、2年毎に開催されています。第5回国際ペンWiP会議は2004年5月17日から21日までスペインのバルセロナで行われ、日本ペンWiP委員会からは芝生瑞和副委員長と田村さと子委員が参加しました。この二人の報告を 掲載します。

[会議報告]

芝生瑞和(副委員長・05年3月3日逝去)

 過去5回、2年ごとにおこなわれてきたWiP同国際会議のなかでは最大規模であり、今まで参加しなかったようなセンターの参加もあった。WiP委員会を持つセンターの参加は48、ただし複数の代表を出したセンターが11ある。またWiP委員会を持たないセンターの参加は15である。

 他に獄中の経験をもつ証言者として5人が招かれて参加した。モロッコ、エルトリア(カナダ在住)、ナイジェリア、トルコ、スペイン(バスク)などからである。しかしコートジボアールのチケー・コネ(オーストラリア在住)はスペイン総領事がビザを発給しないため出国できず、この件についてペンとして抗議した結果、総領事はコネに謝罪し、ビザを発給したが、結局は会議出席には間に合わなかった。

 さらにゲストとして国連人権コミッショナーの「表現の自由」調整官(ラポルチュール)、OSCE「メディアの自由課」代表(2人)、ユネスコ「メディアの自由」部担当官、国際出版者協会の代表、IFEX(表現の自由国際ネットワーク)代表などが参加した。

 ロンドンの国際WiPからは6人がスタッフとして参加し、また前国際ペン会長のオメロ・アリディス(メキシコ)、現会長のイジ・グルーサ(チェコ)、元国際ペンWiP委員長のジョアンヌ・リーダム・アッカーマン、国際ペン事務局長のテリー・カールボンらも出席した。

 このように百人以上の海外からの参加があったが、ホストのカタロニア・ペンは2年前から熱心に準備をすすめてきた。かかった費用は数千万円を下らないものと思われる。スペイン政府、カタロニア州政府、バルセロナ市が費用を負担したとのことである。

(註:04年9月の国際ペントロムソ大会で、ジョ アンヌ・リーダム・アッカーマン女史が国際ペン事務局長に選出され、テリー・カールボン氏は退任した。国際ペンWiP委員長は、ユージン・ショールジン氏からカリン・クラーク女史に代わった。)

 

第一日目・5月17日

 ユージン・ショールジン国際ペンWiP委員長(ノルウェー)が過去2年間の活動報告と総括をおこない、国際ペンWiP委員会の"プログラム・ダイレクター"(正式の呼び名・実質的には事務局長もしくは書記)であるサラ・ワイアット(イギリス人)が次期委員長の選挙の手続きと日程(投票は4日目の20日の午後)を説明した。コーヒーブレークのあと、この1年間のあいだに各センターがおこなったイベントについて以 下の報告があった。カルレス・トーナー(カタロニア・ペン)、ラリー・シムズ(アメリカ)ジョアン・スミス(イギリス)、ムゲ・ソックメン(トルコ)イソベル・ハーリィ(カナダ)。

 すべて北アメリカか、西ヨーロッパ(トルコは中東に位置するがEUへの加盟が論議され、NATOのメンバー)によるものである。アジア、アフリカ、南米、東ヨーロッパ、ロシア、中東諸国などの報告はなかった。このことはそれ以後の会議の司会や進行などについても同様である。

 したがって以後数回にわたって発言をし、北米、西欧の活動も重要だが、実際に作家やジャーナリストの人権侵害がおこなわれている地域、なかんずく中東諸国からのより広範な参加が必要なこと、たんに証言者としてではなく、彼らの主張が生かされることが会議の運営上に必要だと述べた。さらに、イラク、イスラエルでおこなわれている表現の自由の弾圧については、米大統領、米イラク占領当局者、イスラエル首相へ抗議文を送りたいと発言した。

 午後は獄中作家であったクンレ・アジャバド(ナイジェリア)とアリ・ルムラデット(モロッコ)の話を聞いた後、3つのワーキンググループに分かれた。その内容は「昨年おこなった活動のうち何が前向きで、何が失敗だったか」というもので、各国ペンの事情も違い、私達にとってあまり成果があるものではなかった。むしろロンドンの事務局が各センターの活動を把握するためか、要求を聞くためのものだと思われた。司会・進行をおこなったのはロンドンの事務局のスタッフや北米、西欧のペンの代表で、彼らが全体会議でそれぞれのワーキンググループの報告をおこなった。

 夜は会場を大会議場に移して、公開のイベントがおこなわれ、数百人の参加者があり、報道陣もつめかけた。カタロニア州の首長(President)、首相(Chief Minister)、国際ペン会長、カタロニア・ペン会長、サルマン・ラシュディ(アメリ カ・ペン会長)のパネル討論があったあと、ラシュディの基調講演があった。 

[ラシュディの基調演説]

 ラシュディは、まず自分の経験を話した。イラン政府に死刑の宣告を受けたあと、イスラム世界では彼にたいする中傷や、風刺、脅迫ともとれるさまざまなメディア活動があり、彼としては発禁処分を含む法的処置に訴えることもできたのだが、あえてそうしなかった。そのことによってかえってそれらの中傷、風刺、脅迫が注目を浴びるからであり、また「どのような発禁処分も言論弾圧につながる」というのが彼の信念だからだという。

 またイラク、およびパレスチナにおけるアメリカの政策を激しく批判した。また米国籍を待たない自分をアメリカ・ペン会長に迎えた異例の措置にも言及して感謝した。

 演説は参加者の多くの心を動かしたように思われる。この演説はテレビを含めてスペインでは大きく報道された。

 

第二日目・5月18日

 午前中は、マルゼロ・オタメンディ(スペイン・バスク語)およびラジップ・ザラコル(トルコ)の獄中体験についての証言があった後、イギリス・ペンのジョアン・スミスがWiP国際委員会が発行した小冊子『反テロ、作家と表現の自由』について説明した。コーヒーブレークをはさんで、アーロン・ベルハネ(エルトリア・カナダ在住)が獄中体験について証言した。その後コートジボアールのチケー・コネ(オーストライア在住)も証言するはずだったが、前述のように出席できなかったため、空席に彼の名前を書いたボードが置かれた。その後、カナダ・ペンのイソベル・ハーリィ が亡命作家委員会(Exile Committee)について、オランダ・ペンのルドルフ・ギールが国際ペン緊急基金(PEN Emergency Fund)について報告した。

 午後はふたたび大会議場で公開のパネル討論「文学と記憶」がおこなわれた。興味深かったのは、アメリカ(西海岸)のエイミー・リュウの話だった。リュウの祖父は、中国の独立運動に参加し、アメリカや日本でも活動したことがあり、アメリカ人と結婚した。彼女は祖父の軌跡を丹念にたどり(中国語の革命史の文書なども調べ)その本を書いた。四分の一、中国人の血が入るリュウはアメリカ社会における家族への差別や自らのアイデンティティの問題についても言及した。またロシアの従軍ジャーナリスト、アンナ・ポリスコヴァツカヤはチェチェンでの戦争を取材し、チェチェンで の民族問題についての本を書いた(英訳もある)。さらにトルコ人でドイツに住みドイツ語で書く脚本家エミン・オズダマーの話もあった。芝生はフロアから以下のことを発言した。「パレスチナの詩人ムハマッド・ダルビッシュによる『忘却の記憶(英訳本はMemory of Forgetfulness)』は1982年のイスラエルによるベイルート侵略の一日を書いたものだが、その日は8月6日である。まだ若かった詩人を私は広島で案内したことがあるが、広島の原爆館で見た被爆についての彼の記憶と、その日(1982年6月8日)の記憶が重ねあわせて描かれている。今現在、イラクやパレスチナの民衆にとっても、記憶は同じ意味をもっているのではないか。」

 

第三日目・5月19日

 午前中は活動の「広報」や「資金集め」について、ワーキンググループにわかれて「昨年何が前向きで何が失敗だったか」というような討議がされたが、前のワーキンググループでと同様に、私達にとってはあまり参考になることはなかった。それぞれの司会・進行役(前とほとんど同じような顔ぶれ)が全体会議でそれを報告した。

 コーヒーブレークをはさんで、国際組織の代表によるパネルがおこなわれた。国連人権コミッショナー、OSCE、ユネスコ、国際出版者協会、IFEX(表現の自由国際ネットワーク)の代表が、それぞれの組織が「表現の自由」にどのように取り組んでいるかを報告し、WiP委員会がどのようにこれらの組織と連携できるかについて質問に答えた。

 午後2時半からオーストラリア(パース)ペンの呼びかけでアジア・太平洋地域のペンの会合がもたれた。出席したのはメルボルン・ペン、シドニー・ペン、海外ベトナム・ペン、独立中国ペン(二人、そのうち一人はアメリカ在住、もうひとりは北京から)、ネパール・ペン、バングラデッシュ・ペンである。オーストラリア・ペンからは「ビルマ、東チモール、中国の情況について日本ペンからの情報に期待している」との発言があった。

 3時半から6時までは大会議場で「文学とエコロジー」と題する公開パネル討論があった。

 

第四日目・5月20日

 午前中は、「これからどこへ行くのか?」というタイトルで、これから3年、すなわち2007年5月までの"戦略"が討議された。アメリカ、カナダ、イギリス、デンマークの代表が壇の上に立ち、「WiPC計画グループの報告」の説明がされた。この計画グループの上記メンバーは、前回の国際会議で選ばれたもので、他にショウルジン国際WiP委員長、とサラ・ワイアット国際事務局長が参加している。2006年までの予算案はラリー・シムズ(アメリカ)が説明した。

[中国ペンとパレスチナ・ペンについて]

 国際ペンの事務局長が相談したいと芝生に言ってきた。

[パレスチナ・ペン]

 パレスチナ・ペンの代表はアラファトPLO議長に非常に路線が近く、そのことを問題にした。パレスチナの事情を知っている芝生は「代表はアラファトの信頼が必ずしも深いわけではない。しかし詩人や作家としてパレスチナ社会でも国際的にも知られた人物がペンの活動に参加することは意味がある」「パレスチナの有力な作家や詩人(こちらから2,3名前をあげた)にペンの活動に参加してほしければ、イスラエル・ペンを通じて、パレスチナとの和平や対話に熱心な作家デヴィド・グロスマンやオズ・アモスに連絡をとり、そこからパレスチナ側の作家や詩人にアプローチする方法 もある」と意見を述べた。

[中国ペン]

 今回は独立中国ペンからの参加が初めてあったことから、日本ペンと中国ペン(作家協会)の関係について訊かれた。芝生は以下のように応えた。「すでに亡くなられた元会長が熱心だったこともあって中国ペンと日本ペンの交流は続いている。かつて日本と中国のあいだには不幸な歴史があり、かつまた中国は日本の隣国である大国だ。歴史的な文化の交流関係も深い。それらが交流の動機になっている。」「日本のWiP委員会は中国における獄中作家のことを憂慮してきたが、日本ペンと中国ペンの交流に反対しているわけではない。」「中国への日本ペン訪問団に委員が参加して情報 を得たり、獄中作家の釈放を働きかけることを試みたこともある。日本ペンと中国ペンの交流団などによる関係は続くだろう。」「同時にWiP委員会は、いままで行ってきたトフティの釈放要求の活動を含めて、中国の獄中作家を問題にし続ける。」「昨年の"ライターズ・イン・プリズン(獄中作家)の日"に招いて大江健三郎との対話をおこなった鄭義は独立中国ペンセンターの副会長である。」などだ。

 なお後日、独立中国ペンセンターの二人と個別の会合を持った。「鄭義の訪日について感謝する」とのことだった。

[米国およびイスラエルへの抗議書簡]

 会議の初日に米国とイスラエルへ抗議文を送ることを提案した。それでその抗議文の草案をいくつかのセンターと協力して書き、また署名を集めた。

 イスラエル首相あてのものは「パレスチナの代表的知識人であり、エルサレム大学学長であるサリ・ヌセイベ(イスラエルの和平勢力との対話で知られる)のイスラエル官憲による拘束」への抗議と「イスラエル軍および警察による過去2年間におけるパレスチナ人および外国人のジャーナリスト10人余の殺害」への真相解明と犯人処罰の要求である。これらはともに、イスラエルが批准している「公民および政治的権利に関する国際規約」に違反していると抗議した。

 米大統領とイラク米行政官(ポール・ブレマー)あてのものは「イラクの新聞アル・ハウザ紙が発禁になっていること」への抗議だが、イラクも米国も批准している上記「国際規約」の第19条に違反していると指摘したものだ。

 これら三通の抗議文の署名者はそれぞれ40人をこえた。会議の決議というかたちをとらず個人の立場での署名を集めたのは、ショールジンWiP国際委員長との協議のさいの要請による。またイニシアチブをとった私達は「決議文では紛糾するかも知れない可能性」があると考え、また各国ペンの立場はさまざまと思われたので、それに配慮したのである。午前中のセッションが最後の機会と思われたので田村が発言を求め、署名文の内容を説明し署名活動への協力を呼びかけた。

 その直後、イスラエル・ペン代表が立ち上がり、「このような政治的な動機をもった活動は認められるべきでない」と激しくまくしたてた。午前中のセッション終わりの時間がすぎていることもあり、この発言は中断されたが...。

 イスラエル・ペンの代表は署名活動に反対するロビー活動をおこなっていたことを他のいくつかのセンターから知らされた。ちなみに過去5回の国際会議でイスラエル・ペンの出席があったのは今回が初めてである。

 このように紆余曲折はあったが3通の抗議文はトルコ・ペンの代表によって、それぞれ送付されたはずである。

[詩の朗読会などのイベント]

 4日目の午後のイベントについては、3時半から大会議場で公開パネル討論「文学と戦争」に芝生が出席した。7時半から9時までバルセロナの旧市街地で野外の「詩の朗読・獄中で書く」がおこなわれ、数百人の聴衆が椅子に腰掛けて、詩の朗読を聞いた。クルド語、トルコ語、アラビア語、スペイン語、カタロニア語、バスク語、メキシコの少数民族のケチュア語、アフガニスタンのパシュトン語、フランス語、英語による朗読とその解説に聴衆は熱心に耳を傾けた。9時からは市役所での市長主催のレセプションがあった。
最終日・5月21日午前

 2004年から2007年までの3年計画が説明され、承認された。さらにつぎの第6回WiP国際会議(於ノルウェー)についての説明があった。最後にカタロニア州文化相(Minister of Culture)に渡される最終声明(Final Statement)についての討議があった。

 この声明は、会議が多くの元獄中作家の証言を聞いた成果を強調し、各国における反テロ法への批判と反対を表明し、世界中で「表現の自由」が弾圧されていることへの懸念を、サルマン・ラシュディの基調演説の一節「著作は生き残る。作家は生き残らない。」を引用して結ばれている。またカタロニア・ペンとスペイン政府、カタロニア州、バルセロナ市の協力に感謝している。

 この草案では以下の部分が問題になった。「われわれは紛争地域における地域および外国人のジャーナリストへの殺しと弾圧を憂慮する。」パレスチナ・ペン代表がここに「パレスチナでの」という一句を入れて欲しいと主張したのに対し、イスラエル・ペン代表が「地域を限定するのは受け入れられない」と頑強に反対し、「中東および他の紛争地域」という表現に落ち着いた。イスラエル・ペン代表はそれにも反対した。

 この声明文が報道陣の前でカタロニア州の文化相に手渡され、午後1時に会議は終わった。(了)

 


[バルセロナ会議印象記]

田村さと子(WiP委員・ラテンアメリカ文学者・詩人)

 5月17日から21日まで開催された会議に出席のため滞在したバルセロナで、印象に残ったことを会議場内外の出来事に分けて記してみたい。
 
会議場にて

1 サルマン・ラシュディ基調講演について

 国際会議の初日にラシュディは文学のもつ力についてメタファに満ちた、実に熱のこもった講演を行ない、会場を埋めた人々に多くの感動を与えた。メモと記憶をもとにここにその発言の要旨をまとめてみた。「ローマの詩人オヴィディウスは迫害を受けて亡命しなければならなかった。しかしローマ帝国は滅んでも彼は文学的に生き延びている」との例を引きながら、また、スターリン下のロシアで風刺性と独立不羈の態度が政治弾圧を招き、長いあいだ祖国ロシアで多くの作品が出版できなかったブルガーコフの幻想的な風刺作品『悪魔とマルガリータ』の情景を引用しながら、「作家は 消滅しても作品は生き残る」と断言した。

 「ごく近年での例では残忍な殺され方をしたアルジェリアの詩人の事件が忘れられない。彼を殺すようにと依頼され、ピストルと10ドルを受け取った煙草売りに殺された。たった10ドルのために殺されたのだ。現在、このような痛ましい出来事はかつてないほど多く起こっている。作家は狩猟の対象になっている。作家を守るためにペンの仲間はこのことを常に思い起こさなければならない。」

 ラシュディ自身も作家として迫害に苦しんできたが、その経験を踏まえて「わたしたち人間は歴史を語る唯一の種である。だから表現の自由を求めるが、それが唯一ではない。問題はその彼方にある。歴史の中で生き、時代の尺度を考慮し、適応させていかなければならない。これができなければ、歴史は牢獄になってしまう。これらの歴史をコントロールしようとするとき、人間性への攻撃が起こる。

 思想は常にコントロールしようと試みられてきた。ヴォルテールの表現の自由のための闘いは、対国家というよりも多くの場合、対教会であった。フランスの18世紀の啓蒙運動の闘いは現在、イスラム世界で再現されている。バクダッド、テヘラン、ダマスコは文化的に開放された都市であった。国勢の衰えが都市の衰退に大きく影響したが、宗教が表現の自由を制限したとき、これら超大国も自滅への道を辿ったのだ。」

 「9月11日以降の警戒態勢は人々に恐怖を与えている。恐怖を与えるとコントロールしやすいからだ。米国は以前、国際世論に耳を傾けたが、今は聴く耳をもたない。ペンは米国の閉じた扉を開かなければならない。より万人に理解される道を切り開くのが、作家の役割である。」

2 スペインにおける人権侵害について

 2日目の午前、反テロ法下の犠牲者から抑圧の体験を聞いた。ひどく生々しくてショックを受けたのはスペインで現在も続いている人権侵害に関する報告だった。

 スペイン北部のバスク地方の新聞〈エグンカリア〉の記者マストクセロ・オタメンディら10名は、2003年2月、反テロ法の下、突然逮捕され、新聞社は閉鎖された。バスクの革命的民族組織ETA(バスク祖国と自由)に協力している容疑であった。10人中7人は保釈金を積んで釈放されたが、残り3人は拘留されたままである。

 オタメンディは5日間にわたる拷問の様子を詳細に語った。靴下を頭からかぶされ、裸でセックスのポーズを強要されたこと、眠らせないこと、ピストルを頭に突き付けられたことなど。現在問題になっている米軍による拷問を受けているイラク国民の写真を見て、自分そのものだと思った、と言った。

 スペインにおける反テロ法はアメリカやイギリスと同様、裁判なしの逮捕を認めている。弁護士との接見なしに72時間の拘束が可能である。訴訟手続きも検事による証拠申立もなく、中立のオブザーバーが存在しない状態では、虐待の恐れが十分あることは人権擁護団体から既に指摘されている。

 60年代から国としての独立を求めるバスク分離主義者の武装闘争は数百人の犠牲者を出してきたが、〈エグンカリヤ紙〉は中立的な新聞であった。ここに来て、反テロ法のドラスティクな適用があらゆる分離主義者を根こそぎにするキャンペーンへと拡大していったようだ。

 たまたま昼食時に隣に坐りあわせたバスクにペン・センターの支部の創設準備をしている女性は、バスク民族の政治囚の数からみれば、フランコ独裁政権下より増えている、と言い、バスク語を話す人々に対する全面的な攻撃ではないか、との危惧を示した。先般、親米のアスナ--ル政権からサパテロ社会党政権に変わったので、事態が少しは良くなるのではないか、との期待を抱いている様子だった。

 昨年のメキシコペン大会で配布されたWiP国際委員会が発行した『反テロ、作家と表現の自由』に〈グンカリア紙〉閉鎖の問題が取り上げられていたので、ヨーロッパ共同体の一員となった現在もスペインで人権侵害が起こっているとの知識はあったが、これほど深刻な事態とは認識していなかった。直接、体験を聞くことの重さを感じた。

3 ブラジルのベストセラー作家コエーリョの批判

 3日目の午後、公開パネル討論会「文学とエコロジー」が大会議場で行なわれた。パネリストの一人であったブラジルのベストセラー作家パウロ・コエーリョは、公開討論会への入場料が高すぎる、とフォーラムの運営ついて批判を投げかけた。「討論への参加者に30ユーロも払わせるのはおかしいのではないか、ぼくにとって重要なのは読者と接触することで、それは作家の背後にある人間としてのぼくを明らかにするチャンスである。そのような出会いのために読者に30ユーロ要求するのは正当ではない」と主張した。

 その後、同じくパネリストを務める前国際ペン会長のオメロ・アリディスが、エコロジーや地球の未来を考えるメキシコの作家たちのボランティア協会「百人グループ」の活動について報告している最中に、いらいらしている様子でコエーリョは討論会をボイコットして席を立ってしまった。

 アリディスは、すかさず「コエーリョが自分の読者に会いに行ってしまったので、わたしは落ちつかない」とジョークを言って会場を沸かせたが、コエーリョの指摘どおり、確かに参加者はまばらで、広い大会議場の二割程度しか埋まっていない。

 わたしはうかつにもこのときまで知らなかったのだが、WiP国際会議は「言葉の価値」と題する国際ペンクラブの会議の一部として組まれていて、WiPの会議はメンバーだけの非公開だが、国際ペンの会議は公開されていて、一般の人は入場料を支払って参加していたのだった。

 カタルーニャ・ペン制作のパンフレットを読むと、一日(といっても一つのイベントしかない)だけなら30ユーロ、3日通しで65ユーロである。これはスペインの所得レベルから考えると確かに高いだろう。

 参加者との対話になると、コエーリョは席に戻ってきて、聴衆との対話を始めたが、「フォーラムは出演料を当初1000ユーロ払うと言ったのに、移動費や滞在費を差し引いて300ユーロに減額した」と、フォーラムの運営方法について再び批判した。

 作詞家としてヒット曲を出したが、その音楽活動が反政府運動に関わっているとの容疑で逮捕され、拷問を受けた経験もあり、2作目の小説『アルケミスト』が四五の言語に翻訳され、100ケ国で多くの読者を得ているコエーリョの批判は正当であると、会場に居合わせたパネリスト、参加者とも受けとめていた。

会議場の外で

 約30年ぶりのバルセロナだった。町やガウディの設計したサクラダ・ファミリアやグエル公園も懐かしかったが、カタルーニャの国民的シンガー・ソング・ライターのライモンとの再会がうれしかった。

 1940年生まれのライモンはアメリカの公民権運動やベトナム反戦、パリの五月革命などが起こった燃える60年代に、世界中の街角に流れた社会的聖歌をうたったボブ・ディランやジョーン・バエズの仲間である。

 39年、カタルーニャ共和国軍を放逐したあとフランコは祖国の統一という名の下、カタルーニャ語を禁止した。そこには共和制成立に重要な役割を果たし、また市民戦争で最後まで抵抗したカタルーニャへの憎悪と懲罰の念がこめられていた。ライモンの歌はすべて彼の母国語カタルーニャ語で書かれているが、当時、カタルーニャ語で書くこと事体が政治参加であった。

 バスクやガリシアなど、カタルーニャと同様にフランコ政権下で言語を含めたすべての文化を禁止されていた民族が、自らの文化や権利を取り戻そうとする運動と一体となった〈新しい歌運動〉のリーダーとして、ライモンはコンサートの禁止、レコードの検閲、出国禁止、などの絞めつけを受けながら、政治批判や自由や民主主義を求める歌をうたいつづけてきた。その彼を日本に招くという企画があって、その交渉の通訳として76年に自宅に尋ねたのが、最初の出会いであった。

 そのとき、彼の家はまるでジョアン・ミロの私設美術館ではないか、と思われるほど彼の作品が飾られているのに驚いたが、フランコ体制によって圧殺されかかっているカタルーニャ文化を奪還する同志としての友情をもって巨匠がライモンに贈ったものであった。

 77年に初めて来日したとき、公演の通訳として1ケ月、国内をともに旅し、92年に再来日したときは、大岡信さんとの対談や詩の朗読会の司会や通訳を担当した。それ以来、12年ぶりの再会である。私のバルセロナ行きの連絡を受けて、パリに行く予定を変更して夫妻で待っていてくれたのだった。

 「会議が始まると外出できないかもしれない」と私が言ったので、16日の夕食に招待してくれることとなった。タクシーを降りて、見覚えのある通りを見渡していたら、マンションの最上階の窓から身を乗り出している二つの影が「サトコ!」と大声で叫んだ。

 印象的なミロの絵画にも再会し、レストランでカタルーニャの郷土料理をご馳走になったあと、中世の面影を残すゴシック街を散歩して、深夜、ホテルに戻った。「大切な友人だから、きちんと届けてね」とライモンに握手をされながら頼まれたタクシーの運転手は感激した面持ちで「カタルーニャの人々は彼の歌にどれほど励まされてきたかわからない」といい、町はずれのスラムに近い新開地にあるホテルの中に、私が入ってゆくまでしっかり見届けてくれたのだった。